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新潟大学46会同級会参加記録 
その1 (2003-2010)

  新潟大学46会同級会参加記録 その1 (2003-2010)
 毎年10月11日は新潟大学46会同級会が行われる。開催されない年もあるが、私は迷うことなく、何処で開催されても出席することにしている。
 ほぼ同じ年齢の同級生が集まると私も年を感じてしまうが,肩の荷をおろして自由にしゃべれるのがとても良い。なにしろ40数年前の話と今の話とごちゃ混ぜに盛り上がり,その間の事は互いに勝手に類推しながら話するものだから適当にずれるし,明日からはまたお互いバラバラだから責任も問われず、気楽な会話となる。

 私は年を重ねてくるにつれて若い世代との会話が億劫になってきている。否、恐怖感すら覚えるようになってきている。だから、世代が異なる方々との対話を避けるようになっているが、そんな私だから同級生との対話はとても楽しく貴重である。

 会の前日にはゴルフもセットされている。出席者の多くはこれにも参加するのも楽しみにしているようであるが、私はゴルフは出来ない。出席者が一堂に介する宴会に出てもすぐに酔って早々に中座して寝てしまう。だから、遠路はるばる時間と旅費をかけて出かけても何のために出席しているか分からないようなものである。しかし、それでも年に一回、同級生と挨拶を交わし、元気な姿を見るだけで十分楽しく、それだけでも十分出席の意義はあると思っている。
 ところが、犬山で開催された同級会の後間もなく家内が、しばらく経って私も手術を受けたことなどもあって、私どものどちらか2番、3番手の物故者になり得る可能性が生じてきただけに、年に一回まだ生存していることを示しに行く、と言う目的が加わった。

 出席するごとに訪れた地域の印象や会の様子を日記風にまとめてきた。

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2003年(1)長岡市:階段は最後の段が危ない。駅で激しく転倒。
    (2)長岡市:ホテル日航新潟 西日本一のっぽのビル出現
    (3)長岡市:発言集
2004年 犬山市予定:台風22号襲来で中止に
2005年(1)犬山市:名鉄犬山ホテル
    (2)犬山市:新潟中越地震
    (3)犬山市:疾病体験記
2006年 新潟:悪天候でJR遅れ10分間だけ参加
2007年(1)東京:外科医系医師の苦悩
    (2)東京 多彩な表情を持つ趣味人が集まった
2008年 新潟:多くは仕事上では着陸態勢に
2009年(1)会津若松:38年ぶりに磐越西線に乗る
    (2)会津若松:不思議なレトロ空間「大内宿」
    (3)会津若松:清水寺に似た左下り観音堂
2010年(1)富山:私にとって2回目の富山市
    (2)富山:同級会出席の意義
    (3)富山:空路で快適であった
    (4)富山:帰路、富山・羽田とも空港は大混雑

 


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新潟大学46会同級会2003(1) 長岡市:階段は最後の段が危ない。駅で激しく転倒。

 10/12の日医代議員会終了後、大学の同級会出席のため東京から長岡に到着した.しかし開場への案内書を忘れてきたために何処に行けばいいのか解らない。先に着いているはずの家内の携帯に電話、二度目に繋がる。この間二階からの階段を下りつつあったが最後の段を踏み外して前向きに激しく転倒した。一瞬、随分、地球の引力って大きいモンだ、骨折??、頭部強打??これは大事になる!!!・・との感覚が頭をよぎった。?? 背にリュック、左手にパソコン、右手に電話を持っていたがどのようにしたのか解らないが右膝、両腕を支えにして何とか耐えたらしい。メガネは数メートル先に、パソコンも側に飛んでいた。周囲に数人いたが、若い女性が近寄って声をかけてくれ、メガネを拾ってくれた。礼を言いつつそろりと立ち上がってみたが、特に激しく痛む箇所もない。腕も指も、一見何処も何ともなかった。が、右手に若干血が付着していた。歩行も何も全く障害がなかった。?? メガネは右レンズ表面に傷が付きフレームも曲がったが何とか使用可能。気になったのはパソコンである。外見は大丈夫だがスリープ状態のインジケーターランプが消えている。タクシーの中でそっとパソコンを再起動させてみたが・・・反応なし。クラッシュらしい!!。気に入った機種だったのに残念、と半ば諦め気分に・・・。開場で友人の一人から右のこめかみ付近に出血していることを知らされた。既に止血されていたがメガネのフレームの角が床に当たり、それでこめかみ付近に傷が付いたのであろう。?? パソコンは深夜いろいろ試みている内に何とか再起動に成功、データも失われずに済んだ。人間で言えば脳しんとう程度であったらしい。衝撃吸収パットの入ったケースが良かったのだろう。結局は私の小傷2箇所ほどとメガネレンズの傷のみで済んだことになり、幸運を喜んだ。?? 基本的に私の不注意だが大事に至らず全て良かった。もし、同級会の案内書を忘れずに持ってきていれば、もし、家内が一度目の電話に出ていれば、もし、足下がぼける遠近両用のメガネをかけていなかったなら、この転倒はなかったとは思うが、そんな過ぎたことを考えるより今後注意をする方が大事だろうと割り切る。? 同じような、階段の最後の段を踏み外しての転倒は2年ほど前秋田の総合保険センター2階で一度経験しているが、この時も何ともなかったが、反省が足りなかったようである。反省反省。
                               (2003/10/14)


??新潟大学46会同級会2003(2) 長岡市:ホテル日航新潟 西日本一のっぽのビル出現


 ホテル日航新潟は本年5月2日開業したホテルで 、河川の長さが日本一の「信濃川」の川縁に立つ。日本海側随一の高さだという。確かに高層ビルの少ない新潟ではよく目立つ。22階〜29階の客室フロア。下の階は何になっているのか?時間的に余裕なく知ることは出来なかった。壁面ほぼ全体が厚手のガラスで、ワイドビューの窓からは眼下には信濃川と万代島の美しい風景、遠方には遥かに臨む北アルプス連峰の山々、日本海・佐渡島、等々新潟の美しい風景が広がる。今朝は雲が低くたれ込め雨も降っているので、晴天の日や如何に・・・と思わせる景観である。建物、客室内のインテリアはステンレス、鏡、ガラスを巧みに調和させた近代的イメージ。備品で最も目をひいたのは最新のIT機能を有したワイド液晶のTV機能付きのコンピューター、これなら自分のを持ち運ばなくて良い。(ただしマックではないので私にはちょっと駄目だが。)?? いろいろ考えさせられるものがあった。新潟と言えばあの地震、どうしても当時の町の状況を考えてしまう。緩い地盤と液状化現象。なのにこの様な高層の建物を建てたと言うことは、それだけ近代建築の技術が進歩したということの現れであろう。建物の形の上からはあの世界貿易センタービルを連想し、9/11同時テロのあの惨事を思いだしてしまう。それにこの不景気。どんどん既存のホテルが経営困難に陥っているというのに、今時こんな新しいホテルを建築して大丈夫なのか??と言う疑問が湧く。信濃川河口付近の再開発のプロジェクトという背景はあるらしいが、秋田をはじめ地方はとても厳しい状況にあるのだが、東京をはじめとして都会にでていくと本当に日本は経済的に落ち込んでいるのかと疑問になる。日本の不思議の一つでもある。
                            (2003/10/13)



新潟大学46会同級会2003(3) 長岡市:発言集

 新潟大学46年卒同級会はもう何回開催されたのであろうか.よく解らないが20回ほども開かれたらしい。私は今回が2回目の出席、家内は5回ほどの出席。私は数年前に家内に強力に誘われて出席したのが初めてで、懐かしく、楽しい時間が過ごせた。今回は当日東京出張なのでその帰りに寄れるという気楽さもあって出席とした。家内は直接長岡に向かった。?? 46年(1971)卒だからもうあれから32年にもなる。2年ほど前に一名欠けたがほぼ全員生きている珍しいクラスでもある。香典用の積み立ても遣い道がなくて○百万円もあるとのこと。次は誰か?俺か??? 30数名が出席した。一言ずつコメントを述べたが、内容的にははやはり年だね。??●大学は法人化等で大変・・・・これは4人ほど、教授連から?●医療事故処理でTVカメラの前で頭を下げたのが何度かあって・・・?●秋田の何とか病院は年間1000例もの白内障の手術が行われている・・・?●医療評価機構受審担当で困っています・・・・?●家内が調子が悪くて,今から直ぐに帰って介護します。では・・・・?●何で日本医師会長の選挙に会員は投票出来ないのか・・・?●孫が可愛くて・・・・・これは10人以上からの意見,でれっとにやけた表情が印象的?●最近目が悪くなって・・最近、物忘れが・・最近尿が近く・・最近足腰が・・・?●遅まきながら昨年開業しました・・・・?●講演依頼があるけど,医学的内容でなくて,歴史とか,人生観とかの希望が多くて悩んじゃう・・・・?●家内もホームページを持っています・・・・?●今日は、皆さんに最後のお別れを述べに出席しました・・・?●ペンネーム○○でいろいろ書いてましたが、最近時間がとれなくて・・?●最近、女医診療日記を書いてます・・・?●最近、眼科医会の方の仕事が回ってきて、医師会活動にもやっと興味が沸いて・・・?●旧姓○○です。皆さん覚えていらっしゃいますでしょうか・・・?●同級の眼科の○○君がつい先日当教室で研究しめでたく博士号を取得しました・・?●研修医の誰よりも長く病院に居て業務をやっています・・・?●来年は皆様方を名古屋にご招待申し上げたい・・・で,来年の開催地が決まった?●中通りにも整形関係で手術に行ったことあるよ・・・あっ,そう!!有り難う・・??などなど・・・まだまだ続いたがこの辺で。? 同じような年齢の同級生が集まると私も年を感じてしまうが,肩の荷をおろして自由にしゃべれるのがとても良い。なにしろ30数年前の話と今の話で盛り上がり,その間の事は互いに勝手に類推しながら話するものだから適当にずれるし,明日からはまたバラバラだから気楽なものだ。私にとっては情報収集の意味もあって実に楽しかった。
(2003/10/16

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新潟大学46会同級会2004 犬山市予定:台風22号襲来で中止に

 16:00長副院長打ち合わせ中に大学の同級の、今回のクラス会幹事のY医師より電話が入り、10/10犬山市で予定の同級会を中止にしたとのこと。大型の台風22号が関西・中部地方を直撃する可能性が高まってきたためである。秋田はその時点では無風、晴れ状態、直ぐにはピンと来なかったが彼地では大変なことになりつつあるようである。?? 今回の出席は春に決めていたが、時間的余裕が無く10月に入ってから慌てて動き始めたので、交通機関、追加の宿泊施設の確保等には関係者に随分迷惑をかけた。台風接近は予想されており些かの不安があったが東京まで出れば何とかなるだろうと考えて準備を進めていた。確かに、考えてみると無事犬山に着けるかどうか解らないし、予定通り帰秋出来るかも予想出来ない厳しい状況にあるのだ、と改めて実感した。急遽、往路のJAL、浜松、犬山市のホテル、復路のJRこまちのキャンセル手続きをした。若干の損金は出たが仕方がない。不在時の業務の申し送りも書きつつあったがそれも不要になった。?? 久々の私的旅行、関東在住の子供達も合流する計画を立てた。春の立案時には楽しみにしてエントリーしたが、近づくにつれて次々と飛び込んでくる業務で時間の確保が困難になり、むしろストレスにもなりつつあったが、こんな贅沢な時間はそうあるモンでない、と割り切って行くことに決めていた。だから、落胆半分、時間が出来てホッとした、すっきりしたという気持ちも半分と複雑である。? 後はこの3日間の時間を如何に有効に使うか、を考えればいい。秋田も殆ど雨の予想が出ている。やり残しの懸案事項の処理、何処まで処理出来るか、音楽も沢山聴こう、本も読みたい・・・。この3日間、新たな楽しみが増えた。
                              (2004/10/8)

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新潟大学46年卒同級会2005(1)犬山市:名鉄犬山ホテル
? 昨年、開催の前日まで順調に企画が進み、私共も準備万端の状態まで行きながら台風の急接近で中止になった新潟大学46年卒同級会が、去る10月9日名鉄犬山ホテルで開催された。私は新潟、長岡の会に次いで3回目の出席である。家内は私より数回多く出席している。

 日中にはゴルフ大会が催され、夕方からの同級会である。ゴルフは私共夫婦にとっては全く知識もない世界だが、聞くところ殆どがやるらしい。
 ゴルフの実際の出席者は不明であるが、夜の交歓会は出席者19人と少なかった。しかし、丁度良い規模と思われる会で、誰かがスピーチしていてもみんなが集中して聞いて居れるし、気軽に質問したり、笑えたり、しみじみと共感も出来た。卒後34年振りに会うメンバーも数人居て、懐かしく、楽しい時間が過ごせた。

 私どもの同級生は4年ほど前に一名だけ胃ガン?で欠けたが、ほぼ全員生きているらしい、珍しいクラスである。だから、香典用の積み立て金も遣い道がなくて○百万円もたまっているとのこと。次にこの積み立ての恩恵を授かるのは誰かな、もしかしたら私かな?、と思ってしまう。今回は中越地震の見舞い金としても役だったらしい。

 出席者全員が一言ずつコメントを述べたが、内容的に大別すると4群に分けられた。まずは長岡在住のメンバーから中越地震のことが報告という形でじっくりと述べられ、これは住民として聴いても病院管理者の立場からも圧巻であった。次はやはり全員年だから健康面のことなど、聞いていてとても他人事と思えない内容である。さらに人生観の変遷など。もう一つは聞いていて全く分からないゴルフの腕自慢の話であった。
                             (2005/10/19)



新潟大学46年卒同級会2005(2)犬山市:新潟中越地震? 長岡在住のお二人から中越地震のことが報告という形でじっくりと述べられ、これは圧巻であった。

 新潟県中越地震は言うまでもなく平成16年(2004年)10月23日17時56分に、新潟県中部深さ約13kmを震源とする大地震で、ブリタニカ年鑑のデータで見ると、マグニチュード6.8、最大震度7、避難者約10万人、住宅損壊約9万棟、被害額約3兆円超えで、地域社会への深刻な打撃は「阪神・淡路大震災」にも匹敵するとされる。
 私は迂闊にもこの地震についてはあまり深く知らなかった。地域の被災状況、新幹線の脱線、幼児救出のニュース等は新聞等で見てはいたが、多忙な業務の中深い関心を持っていたとは言えない。比較的多額(?)の義捐金は病院の募金を通じて送ったものの、どちらかというと対岸の火事的感覚でいた。

 お二人のうち一人は長岡日赤の副院長であり、一人は耳鼻咽喉科医院院長である。住民としての立場からと組織の管理者として、医療従事者としての立場から実態を述べてくれたが、それを聞きながらあまり関心を向けていなかった自身を深く恥じ入った。
 特にライフラインが立たれた状態での医療の維持の問題、自らの生活の不便さ、悲惨さは約一年を経過した今だからこそ静かに語ることが出来たのかもしれない。
 本震による被害はさることながら頻発する大型の余震は心底から恐怖であり、住宅の中で休息・睡眠を取ることも不安で出来ず、車の中で眠ってみたがそれも耐え難く、最終的には住宅の中に眠るための場所だけは何とか確保したとのことである。
  救援物資、ボランティアなどによるマンパワーは比較的短時間に供給されたが、電気、ガス、水道の復旧までの不便さは大変なもので、特に排泄物の処理の問題、入浴出来ない不便さは何ともし難いものであったという。

 お二人の話の中でよく出てきた言葉は「TVでご覧になったでしょうが・・・」であったが、実は私は殆ど見ていない。これも拙いことで情報として仕入れておくべきだった。
 今回、私は一人の生活者としてだけでなく、病院管理者として無関心でいてはならない重大ごとだと認識をあらたにしつつ聞いていた。秋田で同様のことが生じたら、特に厳冬期間中であったら私どもは当面何をすべきなのか??
 
 長岡日赤だけでなく被災された周辺の医療機関でも今回の地震の総括などまとめるであろうから是非とも手に入れて勉強したいものだと思う。また、新潟県中越地震に関する資料集等も購入しようと思っている。
                             (2005/10/20)


新潟大学46年卒同級会2005(3)犬山市:疾病体験記
? 同級会のスピーチで内容的にスケールが大きく、医療関係者としても身につまされ、圧巻だったのは新潟中越地震の体験話であった。次いで語られたのはやはり還暦を迎えた連中の集まりだから健康面に話題。これも医師の立場での闘病、体験だから内容的には迫力があった。脳梗塞、心筋梗塞、鬱、大腸癌、腰痛、坐骨神経痛、胃癌・・と病名を並べるのに事欠かない。やはり人間60歳以上は疾病との共存が当たり前と再確認した。

 その中で圧巻だったのは山登りを趣味とする外科医の心筋梗塞体験。私は彼とは卒後初めて、すなわち34年振りの再会である。勿論年齢の影響はそれなりにはあるが、体型もさほど変わらず表情も昔の面影そのものである。
 彼はある日富士山に登り始めてしばらくして急に激しい前胸部痛に襲われ、治療開始までの3時間以上も殆ど軽減することのない激痛に苛まれたという。自ら心筋梗塞と判断したと言うもどうしようもない状況でその場での死を覚悟したと言う。
 どういう方法で連絡されたかは忘れたが、救急隊がその場まで登ってきてくれ、担架にて救急車が待機する場所までソロソロと下ろされ、静岡か山梨か忘れたが循環器科的治療にて狭窄・閉塞した血管が再開通し、一命を取り留めたというもの。その間の激しい胸痛はこの世のものでは無かったという。そのあたり、淡々と話す彼の表情は何か大きな人生の憑き物が落ちたが如く、高僧の如くの爽やかさを感じ取ることが出来た。そういえば彼の生家は寺であったように記憶する。それにしても登山道まで登ってきて搬送する救急隊も大変なものだと感心し、そのプロ根性には感心し感謝しなければ成るまい。
 彼は最近、あのオウムで有名になった上九一色村に第二の居を構えたと言う。死に場所を見つけました、機会がありましたらお寄り下さいと結んだ。

 別のメンバーの一人はこの同級会から帰った翌日入院、手術を受ける予定になっています。今回は感慨深い気持ちで参加しています、とこれまた笑顔で淡々と語ったのが印象的であった。私の椎間板ヘルニアなんて、自分にとって決して軽くはなく結構辛いが、話題性はゼロであった。
                               (2005/10/26)


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新潟大学46年卒同級会2006 新潟:悪天候でJR遅れ10分間だけ参加

 10/8は秋田は早朝から雨天であったがそれほどの風はない。午後からは雨も止み青空が広がった。?? この日は新潟大学46年卒の同級会で、家内と帰省中の長女と共に新潟に向かった。12:48発上りの特急「いなほ」は新潟からの「いなほ」がそのまま折り返し運転となるが、到着が約30分遅れる予定との放送が入った。
? 書店で新書や文庫を数冊買い込み、到着予定時刻少し前にホームで待ったが、何と、先に寝台特急「あけぼの」が入ってきた。「あけぼの」はかつて私も頻回に利用していたが、確か秋田は早朝7:00頃着のハズである。6時間半遅れでの到着という。数10名の乗客が降りて来たが、疲れ切った表情で気の毒に思えた。「何故なんだ?この時点では先のことなど思いもつかなかった。

 予告より更に10分ほど遅れて「いなほ」が到着、車内清掃等などあって約1時間遅れて発車した。1時間程度の遅れなら会の開始時間には十分間に合うと安堵していたが、山形に入ってまもなく「風のため徐行します」との放送と共に時速30-40Km程度ののろのろ運転となった。その後、2時間ほど経ってトンネル内で停止し、「強風のために一時運転を休止します。再開のめどは今のところありません」とのこと。結局、ここで1時間ほど停車し、運転再開、のろのろと山形を抜けた。新潟に入ってからはスムーズで、20:15に約3時間半の遅れで到着した。特急券払い戻しは失念した。

 荷物をホテルに置き、会場に向かったが当然宴はもう二次会場に移動する下準備が始まっていた。懐かしい顔を確かめ、数人と言葉を交わしただけで、私にとって今年の同級会は僅か10分間で効率よく終了した。翌日の帰路は数分程度遅れて秋田に着いた。

 この週末は交通機関の乱れでスケジュールは大幅に狂ったが、不思議なことに私自身の気持ちは平静で、焦りもせず、天候不純を恨むこともなく、与えられた状況に100%身を任せた状態で過ごした。むしろ得られた予想外の、非日常的な時間を目や耳でいろいろ楽しめたので、私にとっては良い週末であった、とまとめることが出来る。
                            (2006/10/10)

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新潟大学46年卒同級会2007(1)東京:外科医系医師の苦悩
? 10月7日は新潟大学46年卒同級会で、浅草の料亭で開催された。10数回目とのことであるが、私は5回目の出席である。昨年は新潟で開催されたが強風で特急いなほが遅れに遅れ、会場に到着後わずか10分で閉会となった。だから、今年は遅れまいと、十分間に合うようスケジュールを立てたので、書店で十分に時間を作ることが出来た。?? 当日は超快晴の中でゴルフがあって参加者は日焼け状態で集まってきた。夜の交歓会は出席者30人ほどであった。大多数は固定のメンバーであるが、卒後36年振りに会えた友人も数人居て、懐かしく、楽しい時間を過ごした。5年ほど前に亡くなった一名を除き、同級生が死亡した話はなく、幸いまだほぼ全員しぶとく生存している様である。?? 出席者全員が一言ずつスピーチした。2年前は新潟中越地震についてが圧巻であったが、今年は中越沖地震について数人から語られた。被災地の方は一瞬、「またか!!」、と思ったとのことである。新潟在住者は地震に対して一種の達観状態にある様である。? 全員初老期だからがんを患って手術を受けた話、ステントを入れた話、孫が可愛いくしょうがないことなど、話題はいろいろであった。?? その中で今回圧巻だったのは、外科系の方々から語られた麻酔医不足の話題であった。新潟県内の代表的病院も麻酔科医が不足して緊急手術が出来ないとか、自分はメスを置きもっぱら麻酔をかけているとか、派遣麻酔科医の報酬が高額過ぎること、東京では麻酔医の派遣事業所が100箇所以上もある、と言うことなどである。? 医療崩壊は全国の共通の話題である。
                             (2007/10/9)



新潟大学46年卒同級会2007(2)東京 多彩な表情を持つ趣味人が集まった

 10月7日は新潟大学46年卒同級会で、浅草の料亭で開催された。? 揃った全員の顔の表情を見ると、4人の教授、病院長、副院長、診療所の院長など肩書きは様々であったが、何れの方々もいい年の取り方をしている様な柔和な雰囲気を漂わせていた。もっとも、そういう環境の方々だから集まったという見方も出来る。?? 勿論、歳のせいもあり、また、同級会という非日常的なところに昔の知己が集まったと言う気楽さもあるだろうが、私は60歳を越えてパリパリの現役の厳しさからそろそろ心理的にも、肉体的にも、また社会的責任という面からもそろそろリタイヤし始めて来ていることがこの表情に表れているように感じ取った。この会に私が初めて出席したのは7-8年前であったがその時の印象とは全く異なる。全員がまだシャープな現役医師の、厳しい表情を漂わせていたものである。?? 勿論、仕事上の話題では、「何でこんな年になってもこんなに多忙な生活を強いられているのか」、と言う発言も数人からあったが、その中にさえも余裕が感じ取れた。一方、かなりの時間を自分のために使えるという、私から見て実に優雅で羨ましい条件下で仕事をしている方々もおられた。マア、医師としてそれぞれの立場で35年も働いた結果であるから、人それぞれの境地、環境に達して当然でもある。?? 趣味の点でもいろいろ語られた。かなりの方々がゴルフをやっているようである。ずっとフルートを吹き続けていると言う整形外科医、バラの栽培、改良に情熱を傾けている外科医と眼科医、蕎麦打ちでは地域でかなり名をなしているという某教授、野菜作りに勤しんでいる東北地方の院長、風呂場にかなりのオーディオ装置を取り付けて楽しんでいると言う耳鼻科医、BMWの新車にしようか迷っている外科医など、様々であった。?? 私も、何時かは時間を得てやりたいと思っていて出来なかったことをいろいろやるぞ、と意気込みだけは十分である。しかし、今のところまとまったことは何にも出来ない。? 今回の同級会では友人達から、私にも何れは来るであろう、時間がゆったり流れるような環境下での人生の楽しみ方、過ごし方を教えていただいた。? あまり早く時間が過ぎるのも困るが、その時が来るのが楽しみである。
                           (2007/10/10)

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新潟大学医学部46年卒同級会2008 新潟:多くは仕事上では着陸態勢に

 10月12日はほぼ毎年開催されている新潟大学医学部46年卒同級会が新潟東急インホテルで開催され、京都の学会の帰路に新潟に立ち寄り、秋田から向かった家内と共に出席した。

 卒業後20数回開かれたとのことで、私は2003年以降皆勤で6回目、家内は10回目ほどの出席である。当初、私は出席していなかったが10年ほど前に浜松での会に一人出席した家内とエスコートした長女から激しく抗議を受けてから、同伴するのもつとめの一つと割り切って出席、今まで続いている。

 確かに出席してみるとなかなか楽しい会であるし、教授連も揃っているから新潟大学を中心とした文科省、厚労省の、医政上の情報を得ることも出来る。

 出席者のスピーチも様変わりしていく。
 数年前は孫の話など中心であったが、一段落し、各々の仕事中心の話となり、一昨年は日本海中部地震の話題、昨年は外科系を中心に麻酔科医師不足による業務の停滞、いわゆる医療崩壊が話題となった。

 司会者のまとめによると私共の46年卒としての特徴は
(1)教授を沢山輩出している、
(2)カップルが多い、
(3)物故者が極端に少ない、と言う特徴を挙げていた。

まさしくその通りである。
(1)今回も教授連が5人出席、更に数人いるから卒業生の1/10が教授になったことになる。
(2)に関しても出席したのは4組であったがまだまだいるようだ。
(3)に関しては卒後37年も経つのに亡くなられたのは数年前のお一人だけである。ただ、この点に関しては今年までのことで、みんな高齢化しているから来年はどうなるか分からない。あまり平穏だと次は自分か、とさえ思ってしまう。

 出席者が各々ショートスピーチをしたが、個別の話題は別としてその場の全体的な雰囲気は、業務上ではそろそろ引退の準備にあるような、航空機で言えば着陸態勢に入り徐々に高度を下げているような、何かしらホッとしたようなソフトな雰囲気が漂っていたことである。昨年とはがらっと変わった様に感じられた。既にリタイヤした方もいたし、ここ1-2年で退職、閉院?を考えている方、業務半分?で野菜作りにいそしんでいる方、山を見れば登りたくなる方・・・と様々であった。

 考えてみれば全員還暦を過ぎた高齢者の集団である。医師として精力的に働くのはそろそろ限界であろう。各々が方向転換を模索し、踏み出しているようである。そのことを語る時の柔和な表情がとても良い。

 私も既に持ち物など処分を始めて着陸態勢に入っているが、うまく着陸できない時のことも含めていろいろ考えるべきであることを改めて教えられた。
                           (2008/10/14)

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新潟大学医学部46年卒同級会2009(1)会津若松:38年ぶりに磐越西線に乗る

 本日は年に一回、この時期に開催される新潟大学46卒同級会への出席をかねての小旅行で、夫婦での参加である。

 今回は会津若松で開業されている同窓生お二人が中心になって東山温泉の向滝という古式豊かな温泉宿を会場に開催された。
 秋田を正午にこまちで発ち、仙台、郡山で乗り換え、磐越西線にて約5時間で到着した。意外と早い到着で感激した。

 磐越西線は新潟大学学生の時に6年間利用したルートであり、1971年3月の医師国家試験で宮古から新潟に受験に行った時が最後だから、38年ぶりに乗ったと言うことになる。
 当時は仙台-新潟間に磐越西線経由の準急があり、仙台からだけで5時間、盛岡からだと8時間以上かかったものだ。それが今は秋田-盛岡-仙台-郡山-会津若松のルートを合わせてもほぼ5時間だから、この間にいかに高速化したかが分かる。

 学生時代、盛岡-新潟間の年に何回かの移動はとてもストレスであった。
 特に仙台-新潟間の特急列車は重油の臭いもきつく、エンジン音はうるさく、座席は堅く、背もたれは木製、更に冬期間は暖房も弱かった。降雪期には列車は背丈以上に積み上げられた雪の壁の間を走り、降雪があれば走っては止まりの繰り返しで、何時着くか分からないこともしばしばであった。

 救いは十分本を読めたこと、自然豊かな山々や緑を楽しめたことで、磐梯山の雄姿、阿賀野川沿いの新緑や紅葉は何とも言われない景観でこの見事さは忘れられない。

 今回は往路の快速列車、復路の普通列車も新しく立派でシートは柔らかく快適で、殆どストレスは感じられなかった。
 今回は会津若松下車のために阿賀野川沿いの景観、紅葉の始まりを楽しむことが出来なかったのが残念であった。   
                          (2009/10/11)


新潟大学医学部46年卒同級会2009(2)会津若松:不思議なレトロ空間「大内宿」
 


(同行の追手氏提供)

 盛り上がった同窓会の翌日もからりと晴れた最高の天候であった。秋の空は高く清み渡り、ここでも太陽の恵みを十分堪能できた。
 本日は会津若松で開業されている同窓生のお一人のご好意で近隣の名所と昼食のミニツアーがセットされ、9名が参加しジャンボタクシーで遊覧した。

 会津若松は私にとっては通過点であって数10回は通っただろうが一度も降りたことはなかった。今回が初めてである。
 駅に降り立っただけで当地が観光にかなり力を入れていることが感じられた。一昔前は富士通があってかなりうるおった時期もあったが、今は観光が中心かな?とタクシードライバーが説明してくれた。

 会津若松と言えば私が知っているのはせいぜい白虎隊、飯森山、鶴ヶ城であり、磐梯高原、猪苗代湖・・・である。当日はこれらを全部スキップして「大内宿」と言うところから見物することになった。家内はTV等でその存在を知っていたようであるが、私は本日まで「大内宿」そのものの存在も名前も全く知らなかった。

 「大内宿」は江戸時代、会津-日光間を結ぶ会津西街道の宿場だったところで今も約30軒のかやぶき屋根の民家が街道に軒を連ね、宿泊、食事、みやげもの店等を営んでいるという、言いようによっては時代にすっかり取り残されたことで今注目を集めているところである。

 この地が宿場として整備されたのは江戸時江代の初期で、街道を通る物資の輸送の手助けで経済が成り立っていたらしいが、明治半ばに近隣を別な道路が開通したことによってすっかり寂れてしまったのだという。昭和56年4月に重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

 約500mほどの街道跡の道の両側には藁葺きの民家が連なっているが、今は殆どの家がそばや餅、団子そのほか民芸品などを販売する店舗となっている。沿道は老若男女、大勢の人で埋め尽くされ、大変な人出である。私どもは混雑を避けて早めに着いたのであるがそれでも大変な賑わいであった。
 こういうレトロ的雰囲気だと確かにそばや餅、団子を頬張りたくなるのであるが、美味い朝食をいただいた後であり、かつ趣向味のある昼食が用意されているとのことだったので見るだけとした。名物のネギそばには丸ごと一本のネギが添えられており、箸の代わりにそのネギを用いて食べるのだそうだ。

 当地は全国的にも知られた名所とのことであるが、そこまで言われればちょっと不思議な気がする。私は盛岡郊外の旧乙部村と言うところで育ったが、家の近辺は乙部街道と呼ばれこれととても良く似た雰囲気で、私にとってはとても懐かしくあった。勿論、乙部はもう昔の雰囲気は100%無くなっている。この大内宿は確かにレトロ的雰囲気十分である。良いところを案内して戴いたと思う。

 ただ、これだけ大勢の観光客を集める求心力は何なのか??そんな古い文化や遺産を愛でる趣味人達が集合しているとは到底思われなかった。そばか、他の食品か?と言う疑問を抱きながらこの地を後にした。近隣にはそば畑が散在していた。今、新そばの季節である。ネギそばは雰囲気もあるのだろうが、実に美味そうで後ろ髪引かれる思いがした。
                           (2009/10/12)



新潟大学医学部46年卒同級会2009(3)会津若松:清水寺に似た左下り観音堂

会津若松に小旅行
スケールは異なるが京都の清水寺を思わせる造作である。

 駅に降り立っただけで会津若松市が観光にかなり力を入れていることが感じられた。何の準備もなく出かけたので詳細は知るよしもないが、当地には 歴史的に見て重要な神社や仏閣がかなりあるらしい。それを巡るツアーもあるようで仏像好きである私の興味を大いに刺激してくれた。

 「大内宿」見物後,タクシーはしばらく走り、小高い山にあるちょっとした駐車場 に停車した。ここから山道を登ったところに、俗に無頸(くびなし)観音と言われる観音が安置されているという。正式には左下り観音堂と言うらしいが、駐車 地点から2-300mほど足下の良くない坂道があると言うことで,体調に若干不安が残る家内は辞退したが、その判断は正解であった。

 観音堂の前にある説明を見ると、この観音堂は830年に弘法大師(?)により建立されたらしい。異説もある。

 切りたった急峻の岩肌にそって,余り太くもない柱で組まれた骨組みは「三層閣造り」と言われるらしい。スケールは異なるが京都の清水寺を思わせる造作である。

 ここに安置されている無頸観音と言われる石像は寺伝によると、無実の罪でこの観 音堂の脇で首をはねられた某被疑者の身代わりになったとされ,そのために頸を欠いた観音石像が無頸観音と呼ばれるようになったとのこと。実際には石棺に納 められていて外からは見ることは出来ない。

 この観音堂は何時頃に改修されたのか分からないが,骨組みの木材はかなり年季が 入っていて弱っているように見えた。 堂の上に昇ってみると一部は腐食してぐらぐらしている。ここからは、会津の山並みや民家がよく見渡せるため、古くか ら風流人の愛する場所でもあったらしい。

 良いところを案内して戴いたと思う。
                           ( 2009/10/15 )



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新潟大学医学部46年卒同級会2010(1)富山:私にとって2回目の富山市

 本日は毎年10月10日に開催される新潟大学46卒同級会への出席を兼ね、ほぼ恒例となった夫婦での小旅行である。
 今回は富山大学で教授をされている同級生が幹事になって小川温泉「ホテル小川」を会場に開催された。

 秋田空港を7:35amに発ち、羽田で乗り換え 10:15には富山空港に到着した。早過ぎる到着であったが、この便でないと富山着が14:00過ぎとなり時間的に苦しくなるのでやむを得ない。高度を下げた機から見えた山々は紅葉が始まり見事な景観であった。機は富山市街の上空を通過して間もなく着陸した。空港は結構近いところにある様だ。
 富山は確か昭和41年ころ北陸地区大学オーケストラ演奏会への参加した際に一度訪れたことがある。44年も前のことで、その時の記憶は殆ど残っていないが、モーツアルトの交響曲35番「ハフナー」で私のヴィオラの調弦がくるって第一楽章は十分に弾けなかったこと、どこかの寺の本堂に雑魚寝したこと、橋から神通川を眺めたこと、は若干記憶に残っている。

 富山駅近くでは旧式の路面電車が走っているのが見えた。富山の路面電車と言えば、確かセントラムと称する近代的車両を用いた環状電車が昨年開業したと聞いていたが、この旧式車両は別ルートを走る既存路線の便なのかもしれない。

 私は初めての土地を訪れた際にはまず地図を購入する。今回もすぐに富山県の地図を購入した。富山県の地図をじっくり見たのは今回が初めてと言っていい。富山については能登半島と新潟県の間にある地域と何となく知っていたが、それ以外のことは殆ど知っていなかった。広大な富山湾に接し平野がありそこには高岡、射水、滑川、魚津、黒部などの、名前だけ知っている土地が並ぶ。特に石川県よりの射水市は高齢者の終末期医療について一石を投じた市民病院があって関心があったが、今回初めてその位置を知ることが出来た。
 岐阜、長野に接する山岳地域には立山、黒部、剣岳、白馬などの山々があることも知った。それらに向かうのか分からないが、富山駅付近にはアルピニストと思われる方々も散見された。

 地図の上で見ると空港と富山市は6−7Km程度と随分近いところにある。同級会の会場である小川温泉は新潟県境に近いところにあり、北陸本線で約50分ほどの所にある泊駅で下車、そこから更に15Kmほど内陸側にあった。近くには有名な宇奈月温泉郷がある。富山空港に着いてから会場まで約70Kmほどの移動が必要で、何でこの様な場所を会場に選んだのかといぶかりつつ移動したのであるが、時間が十分あることもあって車窓からの富山県の海、山、市井の景観を楽しむことが出来た。
                              (201010/10)



新潟大学医学部46年卒同級会2010(2)富山:同級会出席の意義

 私は酒をあまり飲めないのでどちらかというと宴会嫌いである。それに人付き合いもそれほど良い方ではない。
 だから、最近まで、とは言っても、10年ほど前までであるが、時折開催されていた新潟大学46年卒の同級会には一切出席していなかった。しかし、10年ほど前に意を決して一度出席した。ここ7-8年は各地持ち回りで毎年開催される様になったが、ほぼ皆勤状態である。今まで新潟2回、長岡、東京、犬山、会津、富山と7回出席したことになる。

 出席するようになった第一の原因は、毎回一人で出席している家内の不機嫌に耐えかねつつあったこと、私の代わりに同伴しエスコート役をしてくれていた長女の強い提言があったことで、私もついに折れて出席した。この時ばかりは家内も相当いらついて娘にもいろいろ当たることが多かったらしい。娘のためにも、と思って出ることとした。

 同窓会の前日にはゴルフもセットされている。出席者の多くはこれにも参加するのも楽しみにしているようであるが、私はゴルフは出来ない。出席者が一堂に介する宴会に出てもすぐに酔って早々に中座して寝てしまう。だから、遠路はるばる時間と旅費をかけて出かけても何のために出席しているか分からないようなものである。しかし、それでも年に一回、同級生と挨拶を交わすだけで十分楽しくそれだけでも十分出席の意義はあると思っている。
 ところが、犬山で開催された同級会の後間もなく家内が、しばらく経って私も手術を受けたことなどもあって、夫婦のどちらかが同級生のうちで2番手の物故者になり得る可能性が生じてきただけに、年に一回まだ何とか元気で過ごしていることを示しに行く、と言う目的が加わった。更に、どうせ行くならきつい予定を立てずに、開催場所周辺への小旅行を楽しむ事とした。

 ということで今年も富山まで行ってきた。流石に今回の出席者は20数名と少なかったが、みんな老けてきたが、元気で良い表情していた。今年も物故者はいなかった。
 私は今回も、数人と若干会話しビールを少々飲んだだけで酔ってしまって早々に中座した。

 会の翌日もからりと晴れた最高の天候で空は高く清み渡った。帰りの飛行機まで十分に時間的余裕があったので、ホテルの周辺を散策したり、秋の雰囲気を味わいながらゆっくりと移動、帰途についた。
(2010/10/11)



新潟大学医学部46年卒同級会2010(3)富山:空路で快適であった

 10月11日は恒例の同級会で、最近は迷うことなくどこで開催されても出席することにしている。今回の開催地は富山であった。

 富山は遠い。何としていくか、と言うことになるが、かつては青森と大阪間1.000キロ余を約13時間で結んでいた 特急白鳥があったが、2001年3月に廃止になった。関西圏で行われる学会に出席するために秋田・大阪間を何度か乗ったことがあるが、延々10時間ほど、尻が痛かったと言う記憶しかない。廃止直前には通しで乗った乗客は僅か平均4人ほどであったらしく、これでは廃止はやむを得ない。
 秋田・新潟間を8;52発特急いなほで、新潟以降を特急北越6号で行く手があるが約7時間の所要時間で大変、と言うことで今回は空路にした。

 空路では実質2時間で秋田空港を一便で発つと午前中には着く。7:35発ANAで発ち、8:45に羽田着、機種はB767-300型、後席は30%と乗客は少なく快適であった。前日の天候の影響か出発直後はかなり横揺れした。

 この便の機長は実にサービス満点で離陸前からマイクで当日の各所の天候、空からの見所などをガイドしてくれた。表現はとても文学的で、誰かの俳句も引用して説明してくれた。あるいは自作か?とても楽しい内容の機内放送であったが、こんなことをしている暇は果たしてあるのかな、といつもと違うだけに些か違和感を抱いた。「皆さま方に快適に、安全な空の旅をお約束します・・・」と結んで離陸したが、滑走時のエンジンの吹き上げが通常よりソフトでゆっくり、機の加速もよりなだらかであったとの印象を受けた。滑走路は限りあるだけにこれで良いのかな、と軽く疑問に思った。
 上空でも飛行状況の説明があり、揺れたあと、着陸態勢に入る直前、など再再度アナウンスがあったがあまり真面目に聞かなかったので分からない。羽田ではボーディングブリッジで子ども達が窓際で盛んに手を振っていて機長も操縦席からそれに応えていた。何か楽しげな雰囲気のフライトであった。

 富山便は9:05発ANAで殆ど余裕無い乗り換えとなった。機種は同じくB767-300型で搭乗率は全体的に6−7割と思われたが、何故か後席の方が乗客の密度が高かった。こんなことは今までない。上空では機は殆ど揺れが無く、快適に飛行した。富山空港は市街に近いらしく住宅街の上を低空で飛行し、間もなくスムーズに着地した。空港で書店などでゆっくりしたので乗れなかったが、バスだと市の中心部に20分程度だと言うから富山空港は市街からかなり近い所にある。
(2010/10/14)




新潟大学医学部46年卒同級会2010(4)富山:帰路、富山・羽田とも空港は大混雑

 同級会はどんな状態で何時頃終わったのか熟睡した私には全く分からない。翌朝は雲一つ無い快晴で暖かく、朝食後に三々五々解散しメンバーはもう殆ど残っていないようであった。

 私どもは遅めに朝食を摂り、野鳥の声や姿を楽しみたいという家内の希望に添って双眼鏡と録音機をもって2時間ほどホテルの周辺を散策した。結果的に野鳥はそれほど多くなく、鳴き声もあまり聞こえなかった。温泉地の特徴なのだろう、側らには比較的水量の多い川が流れており、せせらぎの音が邪魔になって良い録音は録れない。一昨年の秋ノ宮も、今夏の志戸平も、今回の小川温泉郷も同様であった。山の中に入っていく必要がありそうだが、私どもの体力・脚力では危険であり、クマ注意とあるし、諦めた。

 10:30頃、ホテルのバスにて泊駅まで、JRにて富山駅に移動、書店でジックリ本を選び、若干の手土産を購入した。富山湾で捕れた新鮮な海産物の土産物が多い。誰でも知っているであろうマス寿司は現地では20種類もあるのだそうだ。ゆでても赤くならない白エビは富山湾だけでしか捕れない珍しいエビというので購入してみた。
 15:15発ANAに乗るためにバスにて空港に向かったが、確かに空港は近い。秋田空港のリムジンの1/3程度の距離で、住宅が途切れない郊外と言うって良いようなところに空港があった。富山空港はかなり便利そうである。
 空港は昨日と異なり大混雑で、機も満席であった。考えてみると良い季節の連休の最終日である。帰省客が東京に戻る時期である。この程度はあり得ることだろう、と理解した。秋田までの手荷物を預けたが、羽田・秋田間はJALなので羽田で若干の手続きが必要とのことであった。

 16:30羽田着、第一ターミナルへ連絡バスで移動したが、驚いたことに出発ロビーは移動するのが困難なほどの大混雑であった。羽田がこんなに混雑したのはニュースでは時折見たが私は経験したことがない。全く予想外で、手荷物関連の受付カウンターの前は特に混雑し、並んでいる乗客の列は優に100m以上も続いており、「最後尾はここです」と旗を持った係員が列に並ぶ客を誘導していた。列は遅々として進まず、最後尾の客は手荷物の預け入れに1時間以上はかかるだろうと予想された。幸い私は富山空港で預けてあるのでチケットにJALの受付印を押してもらうだけである。そのためだけにとても並んでいられない。 VIPカウンターはガラガラだったので私はチャッカリとそこで手続きした。  
 17:55発JALは機種がAirBusでなく、沖止めのB・MD-90で166席、これも満席であった。

 今回の富山への往復は時間的に今までにないほどゆったりしたスケジュールで動いた。殆ど急ぐことなく移動し、各所でものんびり出来た。僅か一日半の行程であったが数日間旅行したような気分がした。帰宅して新聞受けに一日分の新聞しかなかったのでハット現実にもどされた。
 日常、時計を見ながら業務に追われてあくせくしていると一日が実に短い。のんびりすると一日ってこんなに長いのか、と改めて気づかされた。時間は使いようである。今後は自分のために良い時間の使い方をしたいものだ。
(2010/10/15)


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