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徒然音楽談義

2002年
2003年


2002年



Mozartの誕生日 
 だからというわけではないが、K136をミュンヒンガー指揮の室内アンサンブルで、K563のディベルティメントをクレーメル盤、グリューミオー盤などの大家の演奏でじっくり聴いた.実にいい演奏で気分爽快になった。   1/27(日)


アトリオン室内合奏団演奏会 
 アトリオン室内合奏団の定期演奏会は、ビバルディ2つのVn、3つのVnのための協奏曲2曲(独奏は団員)、ハイドンVn協(独奏、徳永二男)、チャイコフスキーの弦楽セレナーデ.全セクションのトップにN響の主席が参加し、良い演奏であった.
 近年、合奏団の維持が経済的に困難となり、今年度2名の団員の契約を更新しなかったという.団員への報酬など微々たるものであろうから、減りつつある協賛会員を増やす活動の方が遥かに重要、と思う.私も会員登録しようと考えている.                               2/10(日)

荒城の月
 ここ10日間ほど、滝廉太郎作曲ピアノ小品「憾み」のCDを聴きながら仕事をしている。最近までこの曲を知らなかったことが悔やまれる様な逸品である。昨日20代の女性の来客あり歓談したが「荒城の月」を知らなかった。聴いたことも歌ったこともないとのこと。小学校から大学までの学校生活の中でも、あるいは家庭でも、「日本の歌」が消えつつあるとは言われていたが・・、本当に心底驚いた。
 作曲家「武満 徹」を「ぶまんてつ」と読まれたとき以来の驚きであった。                              2/18(月)

プリーマ弦楽四重奏団を聴く(県立博物館) 
 秋田県立博物館は27年前に秋田市の郊外に建てられ、延べ250万人の入場があったらしいが,この度内容を一新するために3/31に休館にはいるという.
 私も10数年ぶりに訪れたがいささか地味な展示、という感が無きにしもあらずなのでリニューアルした博物館に期待したい.
ロビーで開催された弦楽四重奏団(アトリオン室内合奏団員が中心)の演奏は親しみやすい曲が中心で、曲間にはチェロの藤原ケイ子先生の楽曲や作曲家についての説明などがあり、サービス満点で十分に楽しめた.
ビオラの後藤さんが関西方面に転居するため同メンバーでの演奏はこれが最後になるかもしれないとのこと。残念だ.彼女が独奏したマルティニの「愛の喜び」は心に浸みた。
                              
3/10(日)


あるVc+Bass duoのコンサート
 今日、秋田市文化会館小ホールで、コンサートが行われた。チェロとコントラバスの低音楽器同士の珍しい組み合わせ。

 チェロ(Vc)は倅の師匠でもある藤原ケイ子先生。少し肥ったかな?コントラバス(Bass)は秋田出身で仙台フィルの諏訪部百合さん。この方の演奏は初めて聴いた。女流Bass奏者はまだ稀有な存在。そういえば一昨年スイスのベルンで聴いたオケにも女流コントラバス奏者がいた。

 一曲目のバッハは響きがやや重いかな?という印象であったが、コンサートでは一曲目の調子が悪いのは良くあること。次のクープランからはチェロがいつもの調子で朗々と歌いだし、安堵。低音と重低音の織りなす心地よいサウンドは力強く、時に優しく響いた。

 私は最近は専らヴァイオリンを楽しんでいるが、時々チェロも弾く。コントラバスも遊びで弾いたことはあるが、チェロを弾く技術とは全く別物で発音、音程など難しい。背丈よりも大きな楽器を諏訪部さんは見事に弾きこなした。

 良い演奏会であった。あいにくコンサート終了後小雨が振り出したが、満足して帰途についた。
                               3/21(木)

高田剛志チェロリサイタル
詳細はこちらをクリックしてください.             3/23(土)

あらえびす記念館
 作家「野村胡堂」・音楽評論家「あらえびす」と名前を使い分けて活躍した野村長一の記念館が、私の郷里の隣町に平成7年初夏開館した。盛岡市の中心部から30Kmほど南、近くに北上川が流れ、北に岩手山が悠然とそびえる景勝の地に建設され、数々の作品や執筆資料、SPレコードや音楽関係の資料を総合的に展示している。「あらえびすホール」は小さい体育館くらいでグランドピアノと、タンノイのスピーカー・ウェストミンスター中心としたオーディオ装置もある。
 昨夏に訪れたときには入館者は私ども以外には老夫婦一組だけ。マイスキーバッハの無伴奏Vc組曲をかけてもらったが、実演よりもいい感じで複雑な気分を味わった。静かで、とても落ち着けるいい雰囲気がある。後日機会を得てまた訪れたいと思っている。
                              4/13(土)


秋田市管弦楽団定期演奏会
 文化会館でにてNo34回秋田市管弦楽団定期演奏会が行われた。
 「魔弾の射手」序曲(ウエーバー)、歌劇イーゴリ公より「ダッタン人の踊り」(ボロディン)、交響曲No6「田園」(ベートーヴェン)で、指揮者によるトークでは今回は描写音楽を取り上げたという。アンコールは「ラデツキー行進曲」(シュトラウス)。
 
「魔弾」は繊細さが乏しかったし「ダッタン人」は圧倒的な大音響のみ目立った。「田園」は長い曲だけに準備不足と思われる部分もあった。アンコールは緊張がとれて演奏者達も十分に楽しんでいる様子で、とても良かった。
団員は80人くらいか?その中で賛助出演のコンマスの荒井氏の音が終始聴こえるあたりさすがプロ、と思う。荒井氏一人の参加で弦楽器奏者は安心して弾けたことと思う。

 私はこのようなアマチュアの演奏会が大好きだ。自分もやっていたことがあるからだが、今日も十分楽しめた。演奏の出来とか傷はそう大きな問題ではない。客席との一体感が何よりの宝だと思う。ただ、客席が半分程度しか埋まっていないのは寂しい限りであった。
 今回はたまたま招待券を戴いたが、次回からはチケットを購入して聴こうか、と思う。                            4/29(月)



マ(Vc)の伴奏者にライス米大統領補佐官
 4月22日、米ナショナル・メダル・オブ・アーツ賞授賞式で、ライス米大統領補佐官が、ヨーヨー・マの伴奏を務めたという記事が新聞で紹介されていた。大統領ら多くの名だたる来賓、受賞者たちが耳を傾ける中、補佐官は受賞者のマとブラームスのVnsonataのVc版を演奏。見事なピアニストぶりを発揮し、マの演奏も素晴らしい出来だったという。
 たいしたものである。私など、ただただ感心するのみ。多忙なライス米大統領補佐官が何として準備したのか、天は彼女に二物を与えた、として納得しよう。                                  5/1(水)


ショパンの「雨だれ」のことなど
 一昨年機会があってポーランドを訪れた。政治的にも経済的にも大きな変遷、困難を経て今があることがワルシャワの市街の建造物、記念館、各種の出版物、走行している車、人々の表情等から見て取れた。が、数日の滞在だけでは通り一遍の印象にしかならない。身近に感じることが出来たのは農産物、果物類の豊かさで、手を加えていない、あるがままの、自然そのまま。農家の人達の笑顔が見えるようで、幼少の頃の田舎の生活が懐かしく思い出された。

それにショパン。それまで弦を中心に楽しんできた私にとっては、ショパンはピアノ協奏曲を中心に数少ない曲を楽しめたに過ぎなかったのだが、この旅以降、いくつかの機会もあって、いろいろな曲を楽しめるようになった。耳障りの良いだけ、と思っていた曲が、何と深く心にしみることか・・・

                               
5/21(火)

ショパンの「雨だれ」について(2)
 「雨だれ」は24曲からなる《前奏曲集》作品28の15曲目。曲名の由来は男装の女流作家ジョルジュ・サンドが後に書いた「わが生涯の歴史」という手記に次のようなエピソードが記されている。

  ある大雨の日、サンドが外出先から戻ると、ショパンが冷たい水滴の音を聞きながら自作を哀しげに弾いていた。「修道院のよく響く瓦の上に落ちる雨の音に充ちていましたが、雨の雫は彼の想像と音楽の中では、天から彼の胸に落ちる涙に替っていたのです」(小沼ますみ『ショパンとサンド』音楽の友社より)。

  中間部に嬰ハ短調に転調してから連続した同一の音(嬰ト音)が雨だれの音を模しているからだが、実は同じ曲集の第6番ロ短調の方が本当の「雨だれ」なのだという説もあるらしい。この辺の詳しいことは私には解らないが。
コルトーは、この曲について「しかし死はそこに来ている。その闇の中に・・・」とコメントしています

 ショパンの伝記も2.3読んでみた。超繊細な感受性と精神を持った、性格的には物事を一人で決められない様な超ウジウジ型の、固く殻を作り自分の世界に一生籠もり続けた天才、と言うのが私の抱いている印象である。超ウジウジ型あたりは最も嫌いな性格だけに読んでいていつも不快な気分になる。ただ、作品をじっくり聴くようになってからはこの性格、繊細さ、うじうじさが名曲のルーツなのだと思っている。

  私が何故、超ウジウジ型性格を嫌悪するのか、・・・理由は明確、私自身の性格であもあるからだ。何とか無理して乗り切っているだけに、あからさまに描写されているのを読むと自分をさらけ出している様で不快になる。
                               5/22(水)

P-Trioの夕べ
 昨日アトリオンにてP-Trioを聴く.Vn荒井雅至氏、Vc羽川 武氏、P小林道夫氏.驚いたことが三つ.一つは70-80%の入りであったこと.クラシック系としては有名な音楽家ですらこれだけ入らないことも往々にしてあったのに.

 二つ目は予想以上に演奏が素晴らしかったこと.前者に関しては小林氏は別格としても、お二人の秋田での長い地道な演奏活動がしっかりと人脈を形成し,支援していることの現れと考えられた.プログラムを見ると主催は「荒井・羽川室内楽の夕べ実行委員会」とある.こういう地元の支援で成り立つ演奏会は暖かい.後者では荒井,小林氏に関しては何度か耳にしているので期待通りで特に言うことはないが,初めて耳にした羽川先生のVcの音色の素晴らしさに正直言って驚いた.羽川先生の音楽活動には秋田に転居以来ずっと接していたし,愚息のVcの指導もしていただいたこともあったが直接お聴きする機会はなかった.パンフレットの記載によると独学で始められたとのこと.私にとっても励みになる.

 三つ目は遅れたりキャンセルすることの方が多い家内が,先に来ていたこと.またキャンセル
か,と思っていたが終演後に前の方に居たことに気づきホッとした. 
 なお,演奏に関する感想は3曲目のメンデルスゾーンのP tro No1とアンコールの腫-ベルト,ブラームスのセレナーデに関してのみ.ハイドン.モーツアルトの2曲は名曲を子守歌にぐっすり寝込んで記憶にない.
                               
5/24(金)

ウイーン・フォルクスオーパー アンサンブル演奏会
 楽しみにしていた6/10(月)のVienna Volksoper ensenble(秋田市文化会館小ホール)には業務の関係から40分ほど遅れて入場、後半のみしか聴けなかったが,思った以上に楽しめた.観客は100人もおらず,この点では寂しかった.4人のメンバーはFl+Vn+Vla+Vcと何れもウイーン・フォルクスオーパー管弦楽団の首席奏者達.
    曲はすべてモーツァルトで、オペラ座の楽団らしくオペラの室内楽版としてフィガロ,ドンジョバンニから組曲風に作られたもの,それにK285のフルート四重奏曲であった.特に最後のフルート四重奏曲がメリハリのしっかりした演奏で楽しめた。ヴィオラ奏者は身振り,表情など,雰囲気を楽しげに盛り立てるエンターテイナーでもあった.終演後、家内の弁,一言「あなた方の,アンサンブルとは随分違うわネ」.いつもアンサンブルを乱している私への嫌みですな.

 しかし,この演奏会と家内の嫌みとを糧にして、「よし、Mozartのフルート四重奏曲K285に挑戦するぞ!」と新たなファイトが出てきた私はかなり脳天気なほうなのかな?                         6/12(水)


プラハ室内合奏団
 昨日アトリオンホールにて古澤巌とプラハ室内合奏団による日本の曲を中心にした演奏会を聴いた。前半はチェコの小品を中心に組んだプログラム。大部分は心地よく微睡みながらであったが、モルダウの導入部のFlソロ、サンサーンス「白鳥」・ドヴォルザーク「アメリカ第2楽章」のチェロのソロ、曲は忘れたがホルンソロの音色の素晴らしさを堪能できた。

後半は古澤のアレンジ、編曲によるヴァイオリンソロ付きの日本のメロディ。なかなか良いものであり、今後もっと発展させるべきジャンルである。我が国にもよその国の作品に負けないほどの名曲が沢山眠っている。有能な演奏家と編曲者が手を加えれば十分に通用するし、やはり日本の曲にはゆったり心を委ねられる心地よさがある。もっと頻回に演奏されてしかるべきだと思う。後半は勿体なくて寝ていられなかった。                      6/17(月)


トルシエ、斉藤秀雄、ドロシ・ディレイ、・・
 W杯、日本の快進撃は終了した。良くやったと世界的な評価を集めている。トルシエ監督万歳!彼は契約がW杯迄ということで退任するらしい。過去に采配が理解されず途中退任をも求められた監督もいた事が思い出され、傍観者の立場からも感無量である。

 トルシエ氏は29歳の時にサッカー選手としての将来性を否定され、その後はコーチに転身、更に監督として主にアフリカで活躍した方である.名監督は必ずしも名選手でなくとも出来る事の立証であるが、我が国ではあまり通用しない論旨である.昨年あたり激しいトルシエバッシングがあったではないか.W杯直前にも何かあったはず.当時、マスコミはこぞって彼の非を書きなぐっていたが、今は讃辞讃辞・・のようだ.

 話は変わるが、斉藤秀雄、先ごろ亡くなったドロシ・ディレイ両氏は日本のあるいは世界の若い弦楽器を中心に音楽家を多数育てた屈指の教育者であるが、自身は名演奏家としてのキャリアは殆どない.名指導者は必ずしも名演奏かでなくても良いのだ.ただ、前提として、指導者になるための才能と、ヒトの才能を見抜く能力は絶対的に必要だ.それ以上に大切なのは、指導を受ける側の、相手の能力を見極める鋭い眼差しと、正しい論旨は誰が言っても正しい、と受け取り近づこうと奮起する謙虚さなのだと思う.
ここに挙げた指導者はその面で天才なのだろう.同じように指導を受け世界に羽ばたいた選手や演奏家達も、自分の才を含め、ヒトを見抜く天才なのだろうと思う.凡才は時流に乗って勝手に騒いでいればいい.        6/19(水)




「♪大きいことはいいことだ」山本直純氏死去 
 作曲家、指揮者、・・の山本氏が死去した.69歳、癌とかであれば仕方がないが、未だ死ぬには若い年である.特に、才能豊かな芸術家の死去に際しては、誰も代わりになり得ないだけに、また、特に演奏家の場合には如何に録音などがあっても数ある表現の一部しか記録し得ないだけに、いつもショックを覚える.

 氏は映画音楽や小学校唱歌「一年生になったら」「歌えバンバンバン」などやおばけのQちゃんのテーマ曲の作曲、「オーケストラがやってきた」を始めとするステージ活動、果てはチョコのコマーシャルにまで登場、マルチタレントとしてTVを通じてお茶の間にも人気があったようだ.私は、正当なクラッシック音楽の指揮者としての技能を高く評価していたし、NHK-FMで彼が解説し指揮した名曲の数々を昨年頃まで楽しんできた.こんな歳で死ぬなんて・・・

 放送を通じては常にエネルギー全開という感じだったが、彼の本質は果たしてそうであったのか、私には分からない.かなりの酒浸りだったらしく、それも健康悪化の原因の一つになっていただろう.彼は自分らしく生きた、と思って満足していたのだろうか.                      6/21(金)

耐え難いマスコミの思い上がり的表現。音楽の評論にもたまにあるが・・
 数日分の新聞のスクラップを整理していてある新聞の社説「国民はもう小泉総理の経済政策に我慢が出来ない」と言うのがあった。内容的には論理的でその新聞社の見識の高さが感じられた.しかし、読んでて耐え難いのが「国民が・・」「もはや国民は・・でない」の記載がよく見られることだ。もし本当に記載の通りであれば、もう世の中はそうなっているはずだ.誰がどんな基準で判断して「国民が・・・」と書くのか、思い上がりも甚だしい.「我が社は・・」とか「筆者は・・」と書くべきだろう.こういう書き方だと世論操作に近く、問題である.

 同じようなことが音楽の評論にも見られる.去年チェリストの長谷川陽子の秋田公演に対し横手のある教師が魁紙上に評論を投稿されていた.最初から最後まで美辞麗句を並べたすごい文章であった.それはそれで良い、勝手に感激すればいいのだ.しかし、文中に「聴衆はこぞって魅了された・・・」などと頻繁に書かれていたのには黙っていられない。
 彼は正当に評論できる立場の人間でなく、単なる熱狂者に過ぎない.教師にはこのような傾向の考えをする方がちょっと多いかな?と思う.長谷川陽子の演奏は私も素晴らしいと思ったけれど、彼女はあの日の調子は必ずしも万全でなかったようだ、と、私は感じながら聴いていた.だから、「すべての聴衆」と、十把一絡げにされては迷惑なのだ.                     7/5(金)

真夏の夜のチェロコンサートを聴く(2002 7/20)
 当日は客人を交えてのアンサンブル予定していたが、公私諸般の事情で延期にした。代わりに何とか時間を確保しヴォルフガング・メールホルン(Vc)、高田剛志(Vc)、林真生(P)のコンサートを聴きにホテル・サンルーラル大潟に出かけた。
 
 コンサート会場は披露宴とかが行われる普通の部屋であった。メールホルン氏のチェロは約300年前の作とのことで日本の湿気で壊れるおそれがあり、希望で空調を強力にしているとのアナウンスがあった。その為に演奏中も空調の持続音が続いて不快であった。
 更に、開始直前までと休憩中に会場のスピーカーからオルゴール音楽が流されたが結婚式の歓談時間と混同しているのではないか。音楽を聴きに来たのだから休憩時間は音楽を鳴らすべきではない。会場設定関係者はデリカシーに欠けている。

 メールホルン氏はドビュッシー チェロソナタ、バッハ無伴奏チェロ組曲から第1番プレリュード、フォーレのエレジーを演奏した。ドイツ人らしい堅実な構成で、弱音も美しく表現したがフレーズの変わり目毎に一瞬のポーズを入れるのが耳慣れない表現ではあったが面白い。一方では流麗さに欠けるかな?と感じるところもあったが、感心しつつ楽しんだ。
 高田氏はボッケリーニ、アルベニス、カサドの曲を見事に演奏したが、演奏に年齢がしっかりと表現されるものだと感じ入った。実に若々しい演奏であった。
 師弟お二人の二重奏ではボッケリーニなど3曲を演奏した。二人の演奏法が近似しているためが実に地味な曲にきこえた。チェロ二本はアンサンブルには向かないのかとも思ったが、アンコールとして演奏されたムーンリバーはチェロ二重奏の面白みが発揮され、心理的に区切りがついた。         7/26(金)


真夏の夜のチェロコンサート余談 恐怖と地獄のバイキング
 Vcコンサートは予想した以上の盛況であり4〜500名ほどの聴衆がいた。その意味では演奏された3人の方々にとってはとても良かったのでは、と思う.高田夫妻の秋田アトリオンでの公演が、親戚縁者の動員も含めても今回の半分にも満たなかった事を考えると驚異的な人数であった.アトリオンが便利な場所であり秋田市だから人口も多い、今回は秋田から20数Kmは離れ、決してアクセスが楽ではない大潟村内の施設である.実は私も道に迷いつつ公演開始時刻を気にしつつやっと到着した.
 聴衆が徐々に増えて行くにつれ、いつものコンサートの雰囲気とは異なる方々が多いことに気づいていたが、間もなく、本日の公演には夕食がセットされているので、こちらの方を目当てに大勢の方々が集まっているのだ、と思い当たった.それは、確かに当施設のシェフはその方面ではTVの料理番組にも何度か登場したことのある比較的有名な方だというから、多分そうであろう.途端に私は不安になってきた.これだけの人たちにレストランで一気に食事を出せるのか?、と.

 杞憂はあたった.私の大嫌いなバイキング形式である.私にとっては地獄である.しかも料理の提供場所は一カ所のみであった.会場からいつももの如くゆっくりと出て夕食の席に着いたときには既に料理の前には長蛇の列.10-15分は並ばなければ料理にありつけなさそう.テーブル上のオレンジジュースを飲みつつしばらく様子を見ていたが、全然列は変わらない.当然だね、同じ人が何度も並んでは色々あさっておられる.これは耐えられんと私は早々に退散した.当日はおりしも土崎港の曳き山祭りの夜である、別ルートを選んだのが間違いで高速道にはいるまで再び道に迷って、21:00頃帰宅し遅い夕食を取った.

 レストランはこれほどの人数が一気に料理に押し寄せる状況をどう考えていたのか?理解に苦しむ.もしこの形式を取るなら料理の提供コーナーを数カ所に分散すべきであろう.それ以上に、夕食をセットにするのであれば入場者をレストランのキャパシティの範囲で限定し、コンサートの余韻を楽しみつつ料理を楽しめる様にすべきである.勿論、料金はそれなりに高くなるだろうが、このようなコンサートならそれでも私は参加したい.この夜のレストランの様子はブロイラーの鶏が一斉に餌にありつく様を想定させるものであり、良い音楽を聴いた後にはそぐわない光景であった.
 勿論、料理を楽しまれた方々に何を申し上げるつもりは無い.主催者側に一言言いたかっただけである.私には高くついたコンサートであったが、演奏を満喫したのでまあまあ満足であった。               
7/27(土)


不思議なこと。プロのヴァイオリン奏者は調弦をどうしている?
 私が大切にしている老齢化したヴァイオリンの弦が、それも通常は切れ難い低弦が2本自然に切れた。弦自体はそれほど古くはなかったから、最近多忙であまり弾く時間がとれないために『気を引くために切れたのかなぁ?』なんて考えたが、実際には梅雨時の湿気のためだろう。
 一昨日新しい弦に交換したが、本日まで調弦が大変。交換直後は5分おきほど、今でも1時間ほど毎に微妙に狂うために調弦が必要である。新弦が伸びるためと考えられ、はりかえた直後は特に著しい。

 今までヴァイオリン協奏曲演奏中に弦が切れて中断、弦を交換して再開したコンサートに2回遭遇したが、いずれの場合も独奏者は弦を張り替えて舞台上で軽く調弦して演奏を再開、最後まで何事もなかった如くに弾き終えた。その間、神経質に何度も調弦するようなことはなかった。これは何故なのか未だに解らない。別の楽器に張ってある弦を外して取り替えたのかな??などと考えたりしているが。
                                
8/1(木)

「望郷の念」とはこのように強いものか!!
 新潟出張の際の会議場はホテル「イタリア軒」。6年間の学生生活で側を通ることはあっても足を踏み入れたこともない高級なレストランであった。昭和51年にホテルも開業したが、やはり高級なイメージである。会議後移動しなくてもいいのでそのまま宿泊した。
 「イタリア軒」の創始者は「ミオラ」と呼ばれるイタリア人で、明治7年、曲馬団員として来日、けがで日本に置き去りにされた不運で気の毒な男であった。周囲の援助もあって開業した牛鍋屋は文明開化の活きに燃える時勢にマッチして大繁盛、改装後は「新潟の鹿鳴館」と迄言われるほどになったという。経済的にも家族にも恵まれた「ミオラ」は、しかしながら、在日30余年、望郷の念止みがたく単身祖国イタリアに帰国、大正9年死去したとされる。

 現在私が愛聴している曲の一つがヴァイオリン小品「望郷のバラード」で、天満敦子が哀愁豊かに奏でている名曲である。作曲者自身も、この曲を日本に伝える機会を作った孤高のヴァイオリニストも祖国を離れ、強く望郷の念を抱きつつ失意の中で生涯を閉じたらしい。
 そういえばショパンも同様でフランスに居ながら終生祖国ポーランドを思い続けたという。チェコの作曲家アントニン・ドヴォルザークもアメリカにわたってから激しいホームシックに罹ったらしいが、そのおかげで交響曲第9番「新世界より」(二楽章は「家路」のメロディーとしても有名。) 弦楽四重奏曲「アメリカ」、ドヴォコンの愛称で知られるチェロ協奏曲ロ短調 などが生まれた。 この三曲はアメリカの黒人霊歌とボヘミアの土俗曲が似ていることに感動したドヴォルザークが望郷の思いをこめて作曲したといわれている。この三曲がなければおそらくドヴォルザークは現在名前を残してはいまい。
 
「望郷の念」とはなにゆえこのように強いものか!! 共感出来るような状況を持たない私にはとてもコメントできない不思議な世界である。
 8/2(金)



アトリオン室内オケ17回定期
 アトリオン室内オケ(ACO )No17定演が本日あった。プログラムは「絹のはしご序曲(ロッシーニ)」「シューマンピアノ協奏曲」「交響曲第6番田園(ベートーヴェン)」。チケット当日券完売だったので招待券は同伴者にあげ、私は病院で人間ドック他の残務整理をした。

 聞くところによれば、実際の入場者は95%程度、内容的にはいつもの如くチェロセクションのトップにN響の主席の藤森亮一氏が参加し、特に管楽器が安定していてとても良い演奏であったと言う.

 近年、入場券の販売も頭打ちでACOの維持が経済的に困難となったというので今年度から私も協賛会員になった.本日は予想に反して当日券は購入出来なかったが、とても嬉しくなった。前にオカリナの宗次郎の演奏会に当日券をあてにして出かけたものの売り切れで入れず、純クラシック以外のジャンルは良く売れていると感心したことがあるだけに、地元の室内オケのチケットが完売になったことは感無量である。なかなか秋田も捨てたものでない、と思ったが、ちょっと待てよ、これは今回の公演に限った一時的なものかも知れない。
 本日の独奏ピアニストの佐藤卓史さん(19)は秋田市出身だから同級生など身内の賛助聴衆が大勢だったのかも。マ、それにしても喜ばしいことだ、と納得した。                          8/19(月)



ベルリンso演奏会「未完成,メンコン,英雄・・」
 県民会館で上記の演奏会があった.曲は「未完成,メンデルスゾーンVn協奏曲,英雄」,アンコールは大サービスで「メンデルスゾーン:間奏曲,ハンガリ−舞曲No5,6,フィガロ序曲」.ベルリンsoは1966設立された新しい楽団.指揮は1950年イスラエル生まれのLior Shambadal,Vn soloは1954モスクワ生まれYuru Braginsky.私にとってはすべて初めて聞く名前が連なる.
 ベルリンsoは旧東ドイツにもあったがこれとは異なる楽団.

 指揮者は実に腹の大きい肥満者で,常時上を向いて腕を張り上げ威勢の良い指揮.腹がつかえて下を向けないからだろう.あそこまで激しく動かなくても音楽はしっかり鳴るのに,ご苦労様.運動と仕事を兼ねているのかもしれない.アンコール曲の紹介,拍手への感謝はきちんとした日本語であった.どんなに聴き慣れた曲でも演奏会では新しい発見があるものだが、全曲標準的な演奏でそれなりに楽しめたが新発見はあまり無かった.
 Vn soloのYuru Braginskyはシェリングが高く評価し名器ガリアーノを贈ったとされる演奏家でCD録音も多い.音は良かったが音量が小さかった.聴いた場所の関係かもしれない.
 名曲を並べた長丁場の演奏会.私は適宜微睡んだが,終わってみれば,自分にとってはどれか一曲で十分であったな,と感じた.90%ほど入りの聴衆の反応・拍手・歓声はとても大きかったが,何故?と,感じたほどである.
                            10/16(水)


Duo Prima演奏会 
 Duo Primaは磯絵里子,神谷未穂の従姉妹同士のVn duo.今25歳程度かな??.共にソリストとしても結構認められつつある新鋭演奏家である.幼いときから一緒に遊び,学び,桐朋学園大学を卒業,磯はイーゴリ・オイストラフ氏に,神谷はジャンジャック・カントロフ氏に学んでいる.

 楽譜か何か購入した際に入場券をもらい聴くのを楽しみにしていた演奏会であった.が,急遽理事会が延びほぼ諦めかけていたが,19:30に終了したので後半だけでもとアトリオンホールに急いだ.

 二人とも痩身で身長は高く,遠くからは区別しようもないほど体型が似ていて驚いた.お揃いのドレスであたかもフランス人形がVn演奏しているような雰囲気.次に二人の音色,演奏スタイルなどに殆ど差がないのにも驚いた.演奏した曲はVnの名曲からと映画音楽その他を組み合わせた聴きやすい演奏会であった.実際に聴けたのはモンティ作曲「チャールダッシュ」シモネッティ作曲「マドリガル」モーツアルト「トルコ行進曲」映画狂乱のモンテカルロから「モンテカルロの一夜」.なかなか良い演奏であった.

 最近の若手の演奏会はスピーチが入ることが多くてこれも又良いものだが,演奏の質とは異なりマイクを握ると「そこらのお姉さん」と同じで軽くて薄くて,「現代っ子」そのもの.もう少し格調が高ければ演奏と良いバランスがとれたように思う.
 キャッチフレーズは「由紀さおり・安田和子姉妹に続け」だそうだ.彼女らの影響で「トルコ行進曲」を演奏しているという.
 いかに個々人が優れていても今は同じ程度の演奏家が目白押しである.ソロ活動だけでは自ずから活動の場に限界がある.二人がVn ?duoと言う新しいジャンル始めたと言うことはいい発想だと思う.この付加価値で演奏のジャンルも広くなり,聴衆の幅も広がるわけだから今後とも伸びていくだろう.

 我々の病院も新しい付加価値を創造し,開拓していかなければならない重要な時期だ.                          10/25(金)



おじいさんの古時計 
 何故か解らないが,いま,おじいさんの古時計が大ヒットしている.奇をてらわない当たり前のメロディが良い.リズムもゆったりとして良い.更に,この高齢化のなか,一つの人生の理想的な「天寿を迎えての静かな死」が歌われていて心和ませられる.
 ところで,先日原文を取り寄せてみたら,「90年,チクタクチクタク・・」であった.この歌が作られた当時の寿命のせいかと思ってみたが,日本語訳を作るとき90年だととても歌いにくいが、百年だと歌いやすい.逆に,原語の場合,本当のところ切れの良い100年と言いたかったとしても「one hundred years」では歌うときに辛いものがあり,「ninty years」だととても歌いやすい.その為にねじ曲げたのだろうか?

 まあ,くだらんことを考えたりしたが日本は世界一の高齢国でもあるし,この歌詞に加わった+10年はお国柄丁度良いのではないか,と妙に感心したりしている.

 何やらかにやら在りましたが、このWeb siteもアップしてからまもなく一年目です。よくもまあ続いたものと自分でも感心しています.来訪いただいている方々には深く感謝いたします.今後ともよろしくお願いします.
                             10/30(水)



13人で交響曲
 2週間ほど前、帰宅途中にたまたまつけたカーラジオからシューベルトの交響曲No5が聴こえてきた。この作曲家の交響曲としては圧倒的に「未完成」、「ザ・グレイト」と呼ばれる後期のほうが有名だが、私はあまり好まない。初期の交響曲もなかなかの佳曲で私はこの5番は比較的好きなほうでベーム指揮VPO の全集レコードでよく聴いていた。
 ところが、FMから流れるこの曲はいつもと様相が全く異なった演奏であり、特に各弦楽器が登場する部分では響きは細いものの見事な調和で一糸の乱れもない感じであったし、時に弦はソロで演奏しているようにも聞こえた。曲が終了し演奏はウイーンビルトオーゾとのこと。この団体は小室内合奏団であり10数名で構成されている。この日の演奏は弦も管も各一人とのことであった。この曲は通常二管編成のオーケストラで60名ほどで演奏するが、これほど小さな編成での演奏とは最後まで気がつかなかった。カーラジオという悪い条件で聴いたとはいえ、私の耳はこんなモンなんか、とがっくりきたが、良い響きに改めて感心した。作曲されたころ、多くはこんな小さな構成で楽しまれていたのだろう。

 そういえば、30年も前、期末試験の時期新潟大学管弦楽団の練習の時に人が集まらず、10数名で「英雄」を練習したことを懐かしく思い出した。この時は実にひどい響きがしたが、ずっとビオラのパートをソロで弾いたので不思議な充実感をも感じたような気がする。                  11/5(火)



高嶋ちさ子Vnコンサート(1) 
 めざましクラシックス in 秋田(高嶋ちさ子Vnコンサート)を聴いた.Vnの高嶋ちさ子は時折TVのトーク番組にも出ていると言うし、秋田でのチケットも発売早々売り切れたとのこと.秋田のコンサートでは滅多にないことである。Vn演奏以上に何かが期待されているのであろう。従って、人気先行型の音楽的にはそれほどで無かろうと
当初は無視していたが、前に湯沢とか盛岡で聴いた方の推薦もあり、AKT事業部からチケットを購入した。最期の数枚だったらしい。このため病棟の忘年会は参加できなかったが、先約だったからやむを得ない。
 
 ピアノとのduoかなと思ったがピアノ五重奏+ボーカルとしての編成で、第一部はG線上のアリア、K525、Kanon、Tchaikoメドレー、タイスの瞑想曲、Vn協奏曲メドレー。翌日の講演のために後ろ髪引かれつつここまでで私は帰宅した。

 高嶋は遠目には痩身で実にスタイルの良い美人に見えた.曲の合間には彼女のトークもあったが、声はどちらかというとだみ声に近い。トークは確かに面白く、人気が高いのも頷けた。                    12/21(土) 

高嶋ちさ子Vnコンサート(2) 
 彼女は4歳でピアノを、Vnは小学1年からで、5年から徳永二男氏に師事、毎日8−9時間は練習したと言う。桐朋高校にやっと入学できたが、ここは天才児の集まりか?と衝撃を受け、大卒後も自信つかず更にイェール大学大学院に学んだと言う。実に向学心旺盛なヒトのようである。
 シリーズで開催しているコンサート「銀座めざましクラシックス」はアナウンサーの軽部氏とのトークセッションと毎回豪華なゲスト陣で人気が高く、チケット入手が困難なほどと言う。
 演奏自体は正当で技術的にも高いと感じた。それ以上に感心したのは奏者としての主張がはっきりと演奏に表現されている事で、その演奏を聴いていて随所に新しい発見が出来た。「才能が無くて・・」と謙遜しているものの、性格的にも音楽的にもソロ奏者としての道があっているのだろうと思う。

 彼女の辿っている道は、聴衆が楽しめるように編曲ものを前面に押し出すなど、従来かの演奏家の道として正当とは言えないだろうが、時代にそった新しい行き方の一つのように思える。演奏者として十分活動した後の変容は好意的にとらえられる事が多いが、日本の聴衆は若いうちから変わった活動をしている演奏家にはある種のレッテルを貼りつける傾向があり、技術や音楽性も含めたマイナスのイメージを作ってしまう。
 実は私もそうだったわけだが、であればこそ機会があれば実際に聴いて見るべきだ、と思った次第である。編曲されていない「タイスの瞑想曲」、K525は実に良い演奏であった。

 その意味で、美空ひばりの作品、演歌等をVnで見事に演奏している幸田聡子氏も実演を聴いてみたい演奏家の一人である。
                            12/23(月)


2003年


マショー作曲:ミサ曲「ノートルダム」。フランスで怒鳴られた話
 今朝出勤時、病院の駐車場に入る直前から車のFMでマショー作曲のミサ曲「ノートルダム」が静かに流れ始めた。この曲は一人でミサ曲全曲を作曲したと言う、従来の慣習を破った最初の曲として知られる名曲である。題名の「ノートルダム」と言うのは「聖母マリア」のことである。高貴(Noble)な女性(Dam)と言う言葉と関係あるのかな??などと考えながら自室でしばらく聴いていたが、そのときに2年前の「ノートルダム」寺院(これも素晴らしかったが)の近くでのレストランでの失敗を思い出した。

 パリの「ノートルダム」寺院の近くにある瀟洒なレストランで、ちょっとワインなどを楽しみながらパリで初日の昼食を摂ったが、出発時間も間近になってきたのでトイレに行った。初老のでっぷり太った女性がトイレ番をしていた。習慣に従い何がしかの小銭をチップとして小皿に乗せてトイレに入ろうとしてノブを握ったら、後ろからそのおばさんが大声で「ダメダメ!!」と言う。ほろ酔い加減であった事もあって最初は何を言われたか理解できなかったが、日本語で「駄目駄目!!」と聞こえたので多分私に言ったのだろうと思って振り返ると、右手の方を指さして「入れ!はいれ!」と言う。「へー、仏蘭西のおばさんは最近は日本語も話すのか、たいしたもんだ」と半ば感心しながら入ったらそこが男性用のトイレであり、無事用を足し、すっきりした。その後ロビーに出て様子を伺っていたが仲間達が出てきても彼女は一切日本語は言わない。先ほど私が間違って入りそうになった部屋からは何人かの女性達が、それこそすっきりした様子で出てきた。要するにそっちは女性のトイレであった。見るとドアの上の方に、実に小さな字で「Damen」と書いてあり、男子用には「Herren」と書いてあった。と言うことは、おばさんは「駄目、駄目!!あっちに入れ!!」と言ったのでなく単に「女用」「男用」とやや大声で私に注意したに過ぎなかったのだ。
                             1/16(月)

クラシック音楽の魅力に目覚める
 我が家の祖父は自分でも謡曲を楽しむなどの他、大量のSPレコードを所持しているなど、音楽関係の分野もかなり好きだったらしい。蓄音機も数台あったが、祖父がそれらを楽しんでいたという記憶はない。しかし、これらの装置は子供の頃の私の格好なおもちゃになった。クラシックの小品を中心ではあったが子供用のレコードも20-30枚はあり童謡を中心によく聴いていた。
 自然と「G線上のアリア」「タイスの瞑想曲」等、SP向きの小品には親しんでいたが、別に曲を求めて聴いていたわけではない。たまたま耳に心地よかったからなのであろう。

 そんな私を音楽にのめり込ませる決定的機会は中学1年頃に訪れた。
 ある夕方、たまたまNHK-TVで初来日したオイゲン・ヨッフム指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の初来日の演奏会が中継された。誰もいなかったのを良いことにTVの前に寝ころんで音量を上げて開始を待った。最初の曲はベートーヴェンの「エグモント序曲」であり、題名すら聴いたこともなかったが、最初の強奏和音を聴いた途端に全身に鳥肌が立つような不思議な気分を味わった。当時は当然白黒であり、音質もそれほど良いものではなかったが、感じるものがあったのだろうと思う。その後、ベートーヴェンの何番かの交響曲が演奏された。食い入るように見た事は覚えているが、今は何の曲であったか思い出さない。しかし、私の脳裏には「エグモント序曲」の曲名と最初の和音がしっかりと刻まれた。

 このことを機会に突然クラシック音楽にとりつかれた。とは言えども、当時は既にSPからLPレコードに変わっていたので家の装置では何ともならない、主としてラジオ放送でしか楽しめなかった。文化放送、日本放送などの深夜番組のクラシックの時間、毎週日曜日11:00amからのNHK第1第2放送を利用しての「NHK立体音楽堂」等は私の愛聴番組になった。深夜放送は雑音が多くピアニッシモは殆ど聞こえない。「未完成交響曲」などは低弦の導入部などきこえず突然強奏部から聞こえるような状態であったが、当時は貪るように聴いていたものである。
 それから間もなく、盛岡でのNHK交響楽団演奏会を聴く機会が訪れた。これは私にとって次の大きな音楽体験となった。
1/26(日)

Mozartの誕生日にちなんで.映画「アマデウス」のことなど
 いつも日常的に聴いているが、今日は特にモーツァルトの誕生日にちなんで、改めて「ピアノ協奏曲 (戴冠式)」「弦楽五重奏K515」「ディベルティメントK563」その他味わいながらの仕事を進める。実にいい響きである。

 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは1756年、父レオポルド、母アンナ・マリアの第7子としてザルツブルグで生まれた。成人したのは姉のナンネルと二人だけであったことから当時は生まれても生きるだけで大変な時代であった事が推察される。恐らく当時の平均寿命は10数歳程度だったのではないだろうか。本人にとっても、親にとっても喜びよりも悲しみの体験の方が多かったのだろう。その中で作曲された名曲の数々、その素晴らしさは言葉では何とも言い表せないし、言葉で置き換えたとき、むしろ真の価値が失われていくと感じざるを得ない。

 正月前後の休暇中、たまたま私のパソコンがDVDも見れることに気づいた。映画「アマデウス」のDVDが我が家にあったのを思い出し軽い気持でちょっとかけてみた。パソコンは通常から凝視して見る画面であるし、USB回路を通してステレオからとてもいい音が鳴り、パソコン画面上で眼前間近に見る映画はひと味もふた味も違った新鮮な印象を受けた。すっかり引き込まれ、二回に分けて見終わった。

 この映画は我が家にとって記念すべき映画でもある。というのは家族で映画館で観た最初にして最後になるであろう映画だからである。20年ほど前に秋田の映画館で観たが、当時やっと物心付いた次男が字幕スーパーが出る度に「何て書いてあるの?読んで。読んで・・・」と騒ぐためにまんじりともしないまま観終わってしまった作品である。それが、約20年後、同じメンバーが揃ったところで、今度はじっくりと静かに、良い音楽に浸りながら観ることが出来た。
(ストーリーやキャストなどは下記URLを参照してください)
http://www.cinemabox.com/amadeus/
                                1/27(月)

アトリオン室内合奏団(ACO)第18回定期演奏会(1)
 2/9にアトリオンにACO第18回定期演奏会を聴きに出かけた。指揮はゲルハルト・ボッセ。第一Vn以外の弦のセクションのトップと管楽器にはN響他のフリーの演奏家が参加しアンサンブルを補強していた.

 プログラムはモーツァルト ディヴェルティメントK136、オーケストラ伴奏によるF・シューベルトのアルペジオーネソナタ(チェロ独奏・向山佳絵子)、モーツァルト交響曲40番ト短調。アンコールにはハイドンの交響曲第一番第一楽章が演奏された。
 指揮のゲルハルト・ボッセ氏は1922年生まれで80歳超の方。交響曲40番の演奏前には日本人である奥さんの通訳で10分ほどスピーチした。CD全盛の現代に演奏家と聴衆とが音響、時間を同じ空間で共有することの意義について,またアトリオンホールの音響の良さにも言及し秋田市民はACOと共に素晴らしい文化を持っている、と強調された。ドイツ語による演説は普段そう接することはないが、なかなか響きが良く聞こえる。

 K136は終始軽やかに奏でられた。交響曲40番ト短調は早目の速度でスピード感豊かに演奏された。両方とも、恐らく練習を重ねていた時よりは遙かに早いテンポが要求されたらしく、弦の方々は着いていくのに大変そうにみえた。一番後ろの席で聴いていたがコンマスの音は終止際だって聴こえてきた。通常、指揮者は齢を重ねる毎にテンポは遅く表現が濃厚になっていくものと思うが、年齢を感じさせない軽やかな、曲想作りであったと思う。私は最後に演奏されたハイドンの曲が一番楽しめた。演奏者達もリラックスして曲を楽しんでいるような雰囲気が感じ取れた。やはり交響曲40番はメイン曲でもあることなどから緊張していたのであろう。まるでベートーヴェンの交響曲を演奏しているかのような力み様で私には少しあの曲が持っている「何か」が欠けてしまったように思われた。

 指揮台をおりた彼の歩行は年齢相応のテンポであった。
                                2/10(月)

アトリオン室内合奏団(ACO)第18回定期演奏会(2)
 2曲目はオーケストラ伴奏によるF・シューベルトのアルペジオーネソナタ。チェロ独奏は向山佳絵子氏。彼女の演奏を直接聴くのは初めて。柔らかい音質、深い音色、高度の技巧の持ち主である。この曲は本来アルペジオーネ(というフレットつきのチェロのような楽器)とピアノ伴奏の曲である。チェロでこの曲を演奏するのは非常に困難だそうだが、オケをバックに何ら苦もなく・・と見えるほど流暢に弾きあげた。実際には微妙な部分はバックの音に埋没してしまうなどの問題点があるし、全体に受ける曲のイメージはマイルドなものになっており、通常聴くのと曲のイメージが大きく異なっていた。恐らくピアノ伴奏では彼女は更に更に細やかな表現を加えつつ演奏するのではないかと思われ、是非聴いてみたいものである。

 今回の演奏会で取り上げられたのはいずれも有名曲であるが、単にそれだけでなく私自身にとっても身近な曲でもある。交響曲40番ト短調は大学のオケで定期演奏会で演奏した。出だしはビオラのきざみから入るのだが、この2小節部分だけでも何10回と繰り返し繰り返し練習させられ、当時ビオラのトップに座っていた私はいたく責任を感じたものである。K136はいまでも人が揃うと合奏する曲の一つである。

 指揮者のG・ボッセ氏についても名前は昔から知っていた。私は高校から大学にかけてベートーヴェンの交響曲のレコードを買い重ねていったが、その時の演奏はF・コンビッチュニー指揮、ライプチッヒゲバントハウス管弦楽団の盤であった。それが録音されたのは1958-60年にかけてであったがそのころのコンサートマスターが彼でありジャケットの何カ所かに彼の名前が出ていたように記憶している。また、この組み合わせでの来日公演の一部はNHKで放映されたが、その時のコンマスも彼であった。ここ20年ほどは指揮活動をしているらしいことは音楽雑誌等でも紹介されていたが、2-3年ほど前に私もかつて属していた新潟大学管弦楽団も指揮しているなど、何かと親しみを感じられるヒトである。

 演奏会は私にとっては楽しめたか否かが重要。その点では良い演奏会の一つであった。
                                 2/11(火)

「月の砂漠をはるばると・・」と「サロメ」の場面
 ここ数日は秋田は珍しく快晴であった。昼は部屋に引きこもっていることが多いので天候のことはあまり意識しないが、朝5:30頃、夕の20:00頃の通勤時の空と満月の美しさ、特に、放射冷却の寒気を感じながら観る早朝の満月の美しさは、特筆ものである。勿論、夕の満月も良いが、朝の満月は、更に素晴らしい
 空は全体に紺青、あくまでも澄んで、深く吸い込まれそうな雰囲気。東の空だけが僅かに黄色く色付いている。放射冷却が著しい朝は、雲一つ無く・・というのは希で、大抵は遠くの山並みには黒雲がかかっている。朝の満月は西の空にあるが位置的にはまだ高い。夕の満月と異なり、その色は白く、輝きは強烈である。月に照らされた地面は残雪やうっすらと積もった雪と相まって一層冷たい雰囲気である。山並みの木々、民家の屋根、遠くのビルは全て黒のシルエット。最高の組み合わせだ。出勤は、朝には南に向かい夜は北に向かうから、車であっても窓から十分楽しめる。ここ数日はガラスを通さないで味わいたいと思い窓を全開にして走った。窓からの寒気が身と心をを引き締めてくれる。

 こんな朝はいろいろな音楽が頭をよぎる。だから、ラジオ放送の名曲も邪魔、スイッチを切る。大好きな曲の一つであるR・シュトラウスの歌劇「サロメ」の場面、音楽が浮かんでくる。目の前でオペラが、開始の曲が今にも始まるようだ。「月の砂漠」も浮かんでくる。季節も、場所的にも全く異なっているが、浮かんでくる。これは何ともならない。小声で歌いながら、月を観ながらゆっくり走る。オッともう病院に着いてしまった。
                            2/21(金)

ちょっとした楽しみが私をささえている
 最近は本当に時間がない。睡眠+αの時間をのぞくと、殆ど何かの業務をしている。我ながらよくまあこんな生活をワンパターンでやっていけるものだ。いつまで続くのか、と、フッと思うこともないわけではない。
 本日NHKで頭痛の講演をしてきたが、特に頭痛とストレス、とりわけ職場の業務上のストレス、人間関係のストレスなどが大きな誘因になっていることを強調した構成とした。
 構成を進めていく過程で、自分のことを振り返ってみると、何故か肩こり、頭痛とはほぼ無縁であることに改めて気づいた。
 そう言いながら自分の生活、仕事ぶりを見ると、その中に結構ちょっとした楽しみを取り入れ、見いだしながら、時にはダラダラと気を抜きつつ、けじめ無く仕事しているから、あまりストレスを感じることなく業務をこなしているからなのかも知れない。

 FM、CDなど 医局の自室、自宅の居間にはミニステレオ、ラジカセ、CD etc音楽を聴く道具が複数用意してあり、その時の状況で使い分ける。音楽を聴かずに仕事をすることは珍しい。特に医局では出勤時から帰宅までFM放送は殆どつけっぱなし。歌謡曲あり、民謡あり・・・と楽しみはつきない。自分の蒐集した偏ったジャンルにこだわらないで何でも聴けるのが良い。歌謡曲など、3分間のドラマだと思う。時には25枚のオートチェンジャーでCDのベートーヴェン弦楽四重奏などを鳴らし続ける。退屈であっても中座できない、例えば産業医等の講演会等ではポケットラジオでFMを聴きながら・・と言う不遜なこともやっている。周りの人は補聴器かと思うらしい。
                          2/25(火)

モーツアルトは作曲家などではない。異常感覚の翻訳家だった。
 偉大な バッハは日本語訳では「小川さん」。しかし、彼の音楽は私にとっては「小川」のイメージとは遙かに遠く、近づき難く、難解な代物。今でこそやっと楽しめるようになってきましたが・・・。小川のイメージと異なるのはそれは当然ですね、たまたまBachの日本語訳が「小川」なのであり、本来彼や彼の作品と関係がなくて当たり前。

 ところが、私にとって小川のイメージそのもの音楽があります。それはモーツアルトの作品であり、上手く表現できないのですが、彼自身の性格や生涯についてすらもそう感じているのです。彼の音楽は全て自然が生んだ、自然そのものように見えるし、聴こえて来ます。全く作為を感じないのです。あたかも自然そのものの醸し出す音そのものに聞こえるのです。

 私はを彼自身を小川に例えてみれば理解しやすいと思っています。川と言っても河ではありません。河になりきれないうちに終焉を迎える小川ですね。無理にたとえれば、身近では奥入瀬のようなイメージです。

 話は変わりますが、世に偉大なことをなしえた人にバランス感覚の良い、何処から見ても大きく非のうちどころのない人なんて一人もいません。要するにある視点から見ればバカな人間ほど、結果的には何かをなしえるような気がします。少なくとも私の知っている範囲でもそうです。バランス感覚の良いあらゆる方向で感受性の豊かなひとは並のレベルを超えたことなんてなしえません。そう言う人たちは実は隠れバカなんでしょうね、本当は。そう言う人間がたまたま分不相応の機会を与えられたとき、一見理想的・・と最初は思われるもののすぐに限界が露わになり、結果的に本人も周囲も迷惑するのです。

 モーツアルトの異常性は、音楽以外のセンサーを持たないまま生まれ育ったところにあると思います。またその中で生涯を終えたことはとても素晴らしいことだったのでしょう。当たり前の感覚を備えていたら彼の作品は存在しなかったでしょうから。彼の作品は小川によって流れている一枚一枚の葉っぱに過ぎません。(バカなことを言うなと言われそうですが・・・)
                           3/18(火)

西村由紀江コンサート 日本内科学会市民公開講座「医療と音楽」
 私は名前も曲も聞いたこともなかったが西村由紀江というピアニスト・作曲家のトーク&コンサートが市民公開講座として企画されており会場もホテルから近いので行ってみた。既にステージに向かって左側は満席で右側前列から3列目に陣取った。プログラムには曲目等一切なく何が演奏されるか解らない。地元出身のアナ?の司会で進行。学会長まで挨拶に来ていたし、国立小倉病院副院長がトークの相手として舞台に上がった。医療と音楽とのタイトルに沿ってアロマテラピーを始めとして代替医療、その中の音楽療法の意義についての対談が行われた。

 西村由紀江氏は3歳頃からピアノを始めたが、人見知りが激しくて友達が出来ずピアノを友として育ったのだという。そのために感じたことをそのまま曲に出来る様になったらしい。今では年間60回ほど演奏会をこなし、TV等コマーシャルで彼女の演奏や曲がかなり日常流れているとのことである。
 スタイル良し、表情良し、笑顔良し、実に美しいヒトである。演奏中の表情良し、目の前でペダルを踏む足も美しい。
 最近の若手の演奏家は聴衆に語りかけてくれて面白いが、たいていはトークが始まるとがっかりすることの方が多い。彼女の話術はなかなかである。ピアノの後ろ側、丁度私の数m先にトークの席が設けられたのでその間中、ずっと見とれてしまった。
 演奏された曲は7割り方は自作のバラード風の作品、結構楽しめた。他にショパンの「革命」の一節、ドビュッシー「月の光」。エーデルワイスを「悲しみのエ・・・」「怒りのエ・・」として感情込めての演奏。演奏技巧も優れていると思った。
 特筆すべきは「日本昔話」の語り。ピアノを演奏しながらの語りは効果が何倍にも上がる。「猿の生き肝」が演じられたがとてもよかった。普通は老婆の雰囲気で語られるが、若いおねえさんの語りも捨てたものではない。最後に副院長の歌で「早春賦」。彼もアマとして種々の賞を得ている方。すごい!セミプロである。今もプロについて習っているらしい。最後は「上を向いて歩こう」で締めくくった。

朝、4:50、これを書いている時にNHKラジオから彼女の曲が流れてきた。偶然だね。
                       5/24(土)


ショパンは私にとってモーツルト、シューベルト等とほぼ同列
 ワルシャワの水上公圏内のカジュニキ宮殿の小ホールで待つことしばし、小柄な、とある音楽大学教授が燕尾服に蝶ネクタイ姿で現われ、いきなりショパンのマズルカの一曲を弾き出した。2000年9月の話である。弦楽器の音色を好み、平均律の鍵盤楽器のピアノをあまり好まず、聴く機会もあまり求めなかった私にとって、純然たるピアノソロのコンサートは恐らく始めてであったが、本当に驚いた。一寸気障に表現すればショパンの音楽が身体全体を貫いた感じで、一気にショパン好きとなった次第である。

 私にとってのピアノ音楽は弦楽器を伴っている室内楽、協奏曲では十二分に楽しんでいた。弦楽器と共に奏でられるピアノの音色はとても好きである。勿論数多くのレコードの中にはバッハ、モーツアルト、ベートーヴェン等のピアノソナタのうち有名なものは数10〜100枚は所持しているが、殆どは一度針を通しただけである。ショパンと一言えば、耳に快いだけの甘い音楽という先入観を持っていたと言っても嘘ではなかった。

 このミニコンサートはポーランドの二日目の夜である。その日のワルシャワ市内の観光では、大転換しえた元社主義国の近代化の姿、近隣諸国との確執と侵略・略奪の歴史を遺跡・記念碑等で見ることが出来たし、子供の頃から教科書等で何度も何度も見たキュリー夫人の家、コペルニクスの像も、とても印象深かった。
 その観光の間にガイドさんの口からはショパンの名前が何10回も出た。パリで客死したショパンは常に祖国のことを思い続けていたこと、望郷の念が人一倍強かった彼のために妹さんが心臓を祖国に持ち帰り、ワルシャワの旧市街の聖十字架寺院の入口左側の柱面にまつられている・・・などなど。ワルシャワでは何でもかんでもショパンかね、遠来の客人にもっと伝えたい他のことはないのかね・・・・とも思った次第である。
 その影響もあったであろう、その夜に、ショパンの祖国で、古い宮殿の中の小さなホールで数10人だけの少人数で聴いた彼の音楽から受けた印象は強烈であつた。

 それ以来、わたしはショパンをモーツァルト、シューベルト等とほぼ同列に並べている。

最近のバック・ミュージック バルトークの弦楽四重奏曲全6曲
 バルトークは第2次世界大戦の影響をもろに受けた作曲家の一人。没年が1945年と私の生まれた年と同じで、彼の生きた時代を象徴している。
 シェーンベルクは1936年頃にはアメリカに亡命し、最後の弦楽四重奏曲などを書いていたが、この時期、バルトークは自国で代表作の一つ「弦楽器、打楽器とチェレスタの為の音楽」を作曲した。しかし、シェーンベルクの勧めなどもあったのであろう、この頃からアメリカの財団から彼への作曲委嘱も行われる事が多くなり,1940年10月末、10日間の船旅でバルトーク夫妻はニューヨーク埠頭に着いた。彼にとってアメリカは永住の地としてではなく、一時の亡命のつもりだったらしいが、5年後にこの地で白血病で客死した。1942年頃から白血病としての自覚症状があったらしい。私はかつて血液病を学んでいたのでこの面でもバルトークには親しみを感じている。

 バルトークになじみの少ない方は現代音楽家としての印象を抱いているかもしれない。が、私にとってバルトークはベートーヴェンの延長線上で聴ける、やはり古典的作曲家の一人である。
 彼の作品は、同郷の作曲家コダーイとともに民俗音楽から転用された素材、あるいは20世紀前半に使われはじめた微分音などの音素材を駆使しているので、同時代の他の作曲家と比較しても、先進的な作曲家である。しかし、彼の作品は、弦楽四重奏曲、合奏協奏曲・・有名な「管弦楽のための協奏曲」、ピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲、未完のヴィオラ協奏曲など、「古典的」といえる形式を守っている曲が大部分を占めており,この点から見てもやはり「古典的」作曲家であると感る。

 バルトークの弦楽四重奏曲全6曲は彼の作曲家としての最高傑作であると同時に、第6番は戦乱を避けて亡命する前年の1939年に作曲され、彼の「祖国別離の唄」となった記念すべき曲でもある。

 最近、業務量が更に増えて、医局の自室で書類に追いかけられながらやや苛ついた気持で処理していることが多い。一ヶ月ほど前に突然バルトークの弦楽四重奏曲が聴きたくなり,東京カルテットの3枚組のCDを持ち込みオートチェンジャーでほぼ終日エンドレスにかけている。彼の曲を聴きながら業務を処理すると意外と能率も上がるしストレスも格段に少なくなるのが感じ取れるから不思議なものだ。恐らく,ヨーロッパの政治的混迷に対しての苛つき,近づく大戦の危機感,などが彼のこの作品に濃厚に影を落としているからであろう。
                    6/16(月)


人生は何があるかわからん。ハイドンの下痢は音楽界を救ったね。
 私はハイドンの音楽も好きだ。今朝は早朝から弦楽四重奏曲集をかけつつ業務をしている。さっぱりして歯切れが良すぎて若干時間的にそぐわないが,やむを得ない。ハイドンの作品は午前10時頃聴くのが良い様な気がする。

 彼の音楽のルーツは少年聖歌隊での経験を背景にしているが,彼は余りにも美しい声であったために去勢候補の一人としてリストアップされていた、とされる。カストラートとは元来は去勢羊を意味するが、何時しか男性の去勢歌手を指すようになった。ローマカトリック教会の唱歌隊には女性は入れなかったのでソプラノやアルトのパートは美声を持つ少年達を使っていた。美声をもつ少年たちの一部は美声を維持するため、変声期を迎える前に睾丸を取ってカストラートとされた。去勢は教会の唱歌隊員のみならず、オペラ歌手にも行ったとされる。去勢された彼らの生活は保障されていたらしい。
 変声は思春期にみられる第二次性徴の一つで、性腺ホルモンによって喉頭軟骨の急激な成長、声帯の伸展と厚みの増加という器質的変化によって生ずる。男女双方に起こるが男子により著明で、話し声レベルで約1オクターブ音域が下る。女子では約二音分下るとされている。

 ヨーゼフ・ハイドンはウィーンのシュテファン大聖堂の合唱児童でボーイ・ソプラノのパートで歌っていた。女帝マリアテレジアは彼の美声に眼をかけ彼の歌う音楽をこよなく愛したとされる。しかし,如何に美声といえどもボーイ・ソプラノの声はいつまでも続くわけがない。間もなく変声期を迎えようとする彼に対し、楽長や関係者は彼の美声を惜しんで父親に手術を熱心に勧めたという。父親にはその気はなかったとされるし,幸いにもその頃、ハイドンは長期に下痢をし体力が低下して寝込んでいたために助かった,と言う説もある。

 もし,その時に下痢していなかったら、私達は94番以降の名交響曲集や「天地創造」「四季」などの名作オラトリオを聴くことが出来なかっただろうし、音楽界の流れも変わり,モーツアルトもべートーヴェンもこれほどの大家になれなかったのかもしれない。

 人生はホントに偶然の積み重ねだと思う。つい何年か前には人間ドックで全く異常ありませんと太鼓判を押された方が翌日急死した。先日はドックを受けに病院に着いた途端に心臓発作を起こして緊急処置を受け一命を取り留めたり・・・。
 だからあんまり深刻に考えないで暮らせばいいものだが,そうも出来ないのが人生だし・・難しいものだ。
                        6/19(木)
アトリオン室内オケ17回定期
 アトリオン室内オケ(ACO )No19定演が昨日あった。プログラムはベートーヴェン「ピアノ協奏曲第5番皇帝」「交響曲第2番」。ソリストは東京芸大2年の秋田市出身佐藤卓史(19歳)で昨年のシューマンの協奏曲に続いての出演。彼は将来国際的にも活躍出来る逸材の一人とされているそうだ。チケット購入後しばらく紛失、諦めていたが自宅のマックの下から無事でてきて予定通り3人で聴きに行った。

 聞くところによればチケットは完売したという。実際にほぼ満席であった。
 彼の演奏を私は初めて聴いた。彼にとっても初めての皇帝のソロと言うも不安定さは微塵もなし、十分な余裕さえ感じられ、ひたすら感心しながら聴き入り、ひたすら楽しんだ。言うことなし。
 指揮は大友直人。いつもの如く各パートトップには東京よりエキストラが大勢、今回は名簿によると18人。チェロセクションのトップにN響の主席の藤森亮一氏も参加し、特に弦・管共に安定していてとても良い演奏であった.曲が曲だけ仕方がないのかもしれないがこれほどの数のエキストラには若干疑問も。結果から見れば痛し痒しか。

 ただ、両方の曲とも強奏部分では特に弦楽器の音が汚なかった。これはACOの技術的な部分と室内楽団としての規模、演奏曲目、ソリストの演奏スケールへの対応・・・から見て一部はやむを得ないことなのかもしれないが、私はずっと気になっていた。だから、アンコールの「フィガロの結婚序曲」の方が若干ながら好い音質のアンサンブルが聴けたような気がする。

 ACOは経済的に維持が困難というので私も協賛会員になっている.地元のオケのチケットが完売になったことは良いことだ、と思ったが、2曲目は聴衆が若干減っていた。本日のソリストの同級生などの賛助聴衆も大勢だったのであろう
                                 8/18(月)

初めてMDを持ち出した。機能に感嘆しカセットと決別する
約2ヶ月前にポータブル録再MDレコーダー(Panasonic-MR230)シルバーを購入した。目的は楽器の練習用である。MDディスクとほぼ同じサイズで、小型セパレートスピーカー、室内で使用する際には充電や10キーでタイトル入力、編集などが簡単におこなえる操作ベース(マルチクレードル)も付属している。また、録音は連続約62時間(LP4モード)が可能で会議などの長時間録音にも利用出来そうだ。付属の小型セパレートスピーカーは4x7x7cmほどで50g程度、これが思いの外音質が良く、室内楽などでは十分、机上などに置いて楽しめる仕様になっている。単3アルカリ電池1本との併用で117時間も持つらしい。

最近の電子機器は機能が多くて閉口する。使用説明書も50ページもある。スイッチ等も極小でたくさんついており解りがたい。機能の多くは私には無関係でもある。購入してから今まで再生に若干使ってみたものの習熟するために説明書を読む時間も無く放って置いた。本日は仙台出張なのでJRの往復の時間に使ってみた。説明書もじっくり読み、機能も大体理解出来た。使ってみて第一の驚きはメカの安定性、音質、操作性。カセット時代とは比較にならないほど素晴らしい。第二の驚きは電池の持ちである。こまち往復の5時間流し続けていたが充電池のみでインジケーターの目盛が減ってさえ来ない。帰宅してから小型スピーカーにもつないで鳴らしてみたが、これがなかなかいい。こんなサイズから何でこんなにいい音がするのかと感心した。

子供達は発売から間もなくMDを使用し始めていたが、保守的な私は興味もなく、録再は今までカセットを使用していた。MD購入もそう積極的であったわけではない。私がカセットデッキを初めて購入したのは1971年であり、以来30年使い続けていた。この間、驚くほど改良され私はそれほど不満を持っていたわけではないが、やはり基本的性能から見てMDには敵わない。本日をもって私もMD派になりそうである。カセットどうしようか。音質は劣化しているが貴重な録音もあるのでそう無碍にも処分出来ない。廃棄するにしても環境上でも良くないだろうし・・・。今日を境にまた悩みが一つ増えた。
http://prodb.matsushita.co.jp/products/panasonic/SJ/SJ-MR230.html
                                        8/23(土)


思いがけない名曲、サヴェリオ・メルカダンテ「フルート協奏曲 ホ短調 」
 マフラーが錆落ちた私の古いレガシーワゴンが修理を終了して戻ってきた。が、今度はカーラジオが聴けなくなった。これはAMラジオ派の私にとっては大きい故障である。CD/MDは通常になるのでアンテナか何処かの故障であろう。何時かは修理に出さねばならんが・・・、やむなく手元にありながら聴く機会の無かったCDを数枚持ち込んで適当にかけていたら思いがけない曲が流れ始めた。私にとっての初めて聴く曲であるが、輝かしい勢いのある作品で、フルートの名人芸が生きる協奏曲と言えるが、私にとっては独奏のバックを付けている弦のきざみがとても魅力的、メロディーもとても美しく一発で気に入ってしまった。誰の作品なのか??

 メルカダンテのフルート協奏曲であった。メルカダンテは名前しか知らなかった作曲家である。ロッシーニ、ベルリーニに続いて19世紀中頃に活躍したイタリア・ロマン派の作曲家で約60曲にもの歌劇をつくったが、ヴェルディの出現によって影が薄くなってしまい、今は歌劇の歴史に名を残すだけ、と言っていい。確かに、心理描写のうまいヴェルディに比べたら、とても軽い。だけどそれがこの曲では生きていて耳障りも良い。総合芸術としての歌劇としては物足りないことはこの一曲からでも推測がつく。彼は、学生の頃に、フルート協奏曲を5曲残しているが、最近、この 「フルート協奏曲 ホ短調」 の復活を機会に、むしろ 本業でなく≪室内楽作曲者、協奏曲作曲家≫ として脚光を浴びている様である。やはり人の運とか評価は分からないものだ。

 彼はナポリの音楽院で、作曲の他にヴァイオリンとフルートも学んだためか、他にも美しい室内楽作品が多数残っているとされる。メルカダンテは私にとって求めて聴くべき作曲家の一人なのかもしれない。車の故障を機会に、また、楽しみが一つ増えた。
                                  9/2(火)

天上影はかわらねど、栄華は移る世の姿
 ここ数日、約一年ぶりに滝廉太郎作曲ピアノ小品「憾み」をかけながら仕事をしている。最近までこの曲を知らなかったことが悔やまれる様な逸品である。
 既に名曲「荒城の月」など発表していた作曲家の滝廉太郎は21歳の春、留学先のドイツに船で向かった。天賦の才を大輪の花と咲かせるであろう新天地、あこがれの欧州留学に心が弾んだことであろうことは十分に推察出来る。しかし、ライプチヒでの留学生活は長くは続かなかった。音楽院に入学して僅か2ヶ月で結核を患い、志半ばで帰国し、大分で23歳10ヶ月の生を終えた。絶筆になったピアノ曲、「憾み」の譜面には亡くなる4か月ほど前の明治36年2月の日付が記載されているという。憾み・・・胸躍る船旅、あこがれのドイツでの留学生活、発病、帰国。暗転した人生、間もなく迎えようとしているその短すぎる生涯の終わり・・・。彼の心情に想いをはせれば、何も言いようがないし、この曲の題名「憾み」は胸に染みる。曲は静かに心情を訴えるのではない、激しく、激しく、不運を訴えている。

 一方、「荒城の月」の作詞者である土井晩翠は高校で英語を教えていたとき、ある剽軽な学生が「荒城の月があれほど有名になったのは先生の作詞が良かったからでなく、滝廉太郎の曲が良かったからだと言われますが、本当ですか?」質問され、怒髪天を衝く表情で「悪い詩に良い曲がつくか!!」と、教科書を机にたたきつけて出ていったと言う。しかし、1週間後、「この前は取り乱して済まなかった」と学生達に謝ったというエピソードが伝わっている。さすがと言うべきだろう。晩翠は昭和27年82歳で他界されている。3人の子息女に先立たれ、亡くなる4年前には夫人をも失っている。年老いてから家族に先立たれることの悲惨さははかりしれないものがあろう。夜な夜な嘆き悲しみ、果ては信仰にすがり、筆舌に尽くしがたいほどの不遇の生活を送りながらその生涯を閉じた、とされる。

 荒城の月は自然の中における人間の栄華の儚さを謳っている名曲である。

 昨年20代の女性の来客が「荒城の月」を聴いたことも歌ったこともないと聞き衝撃を受けたが、若い看護師さん方に聞いてもやはり知っているのは約半数程度であった。
「日本の歌」が消えつつあるのは本当に寂しい。
                            9/23(火)

デジタルの時代
 私自身はどっちかというと白黒をはっきり出来ない、しない、決断力の乏しい,アナログ的性格の人間だと思う。その性格をカバーするのにマッチしたのかも知れない、90年代初頭にたまたま音楽の関連のことでパソコン(マック)を購入してから、その便利さに押しきられて,もう手放せないものになってしまった。すると、至る所で使いたくなるし,あたらしい機能はそれほど求めないから型遅れ品や中古品を買い集め,不調や故障で四苦八苦しながら利用して来た。結果的に多少の故障、ソフトの不具合は自分で何とか出来るようになった。起動せずあわや廃棄されるところであった医局のマックも私の所で今も現役で働いている。逆に,分解したまま戻せないでいるマックも二つばかりある。古いのを活かして使おうと奮闘している姿を見て、病院を去るときに「東京では置くスペースがないので、古いのですが使ってください」と私にパソコンその他一式をプレゼントしてくれた医師もいる。実際に戴いたのは古いマックどころか、私にとってはいまでも最新の機種の一つである。

 私の回りのパソコンは家内や子供達のを除くと発売後2-3年以内のものは一台もなくみんな4-5年から10年程度のものであるが、医局の自室に5台、自宅の居間は家内や賄いの石井さんの分を含めて3-4台鎮座し,それぞれが得意分野を受け持ち適宜使われている。

 パソコンだけではない,私のオーディオ関係でも,身の回り品でも次々とデジタル化が進んでいる。カセットデッキは市販され始めた1970年からつい先日まで使用してきた。デッキはこの間随分発達した。今のは何代目になるのだろうか。しかし,今夏ついにMDに席を譲ってデッキの電源も抜かれてしまった・・・。LDはもうDVDに移行し,器機もソフトも手に入らない。今度故障したら終わりかもしれない。こんなにサイクルが早く交代していくとは思ってもいなかった。

 先日のリハビリ病院当直の時にはMDミニステレオ一式、パソコンPB2400一式、携帯電話、デジカメ、I Cボイスレコーダー,ポケットベル、FMラジオをバッグに詰めて出かけ,それぞれが活躍した。実に便利な時代になったものである。大学で勉強中の頃,当直のバイトに行くときにレコード,レコードプレーヤー,アンプ,スピーカー一式を車に積めて行ったものが,今はキャスター付きの中型のバッグに入ってしまう。隔世の感がある。

 でも,まだ完全に移行し切れないのがレコードである。SPの頃から親しんできただけに,また,相当数の枚数があるだけに,そう簡単にはDVDやCDには移行出来ない。まだまだ愛着が強く残っている。
                             12/5(金)




2004年



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