心理学を学ぶ

心理学を学ぶ


 美しいとは何か(2020)
以下の項目について考察した。
 美しいとは何か

以下の項目に分け考察した。
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?心理学を学ぶ(1) 人間の要求の分類
?心理学を学ぶ(2) 「美しい」とは何か(1)
?心理学を学ぶ(3) 「美しい」とは何か(2) 「美しい」は安易に使われすぎている
?心理学を学ぶ(4) 「美しい」とは何か(4) 「美しい」は理屈では理解できない
?心理学を学ぶ(5) 「美しい」とは何か(5) 感動が「美しい」を高める
?心理学を学ぶ(6) 「美しい」とは何か(6) 「一目惚れ」について(1)
?心理学を学ぶ(7) 「美しい」とは何か(7) 「一目惚れ」の心理(2) 私の体験
?心理学を学ぶ(8) 「美しい」とは何か(8) 「一目惚れ」の心理(3) 私の経験(2)
?心理学を学ぶ(9) 「美しい」とは何か(9) 「一目惚れ」の心理(4) 病気か??
?心理学を学ぶ(10) 美しいとは何か(10) 好きなものには美を感じやすい
?心理学を学ぶ(11)美しいとは何か(11)私にとって、音楽>絵画>文字>写真>その他
?心理学を学ぶ(12)美しいとは何か(12)私にとって、音楽>絵画>文字>写真>その他
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心理学を学ぶ(1) 人間の要求の分類
2020年03月20日 09時02分28秒 | コラム、エッセイ
 私は心理学が好きであった。
 大学入学後の一般教養時代の2年間、心理学関係の書籍を随分読んだ。中でも犯罪心理学の分野が好きであった。最近は直接求めて読むことは少ないが、今でも心理学分野が好きで、多くの犯罪事件のレポートは広く求めて読んでいる。
 医学部の教科を通じて一時「精神科」に進もうかとも考えたが、そのうち心理学と精神病学とは共通分野もあるが、全く異なるものであることに気づいた。

 最近は「美しい」、「幸福とは」、「感動とは」、「愛とは何か、恋とは何か」、「幸福とは」、「嫉妬」、「憎悪」、「不安・恐怖とは」、「宗教とは」、「・・・など」についてつらつら考えている。考えても何も満足すべき結果は得られないのだが、やめられない。

 勿論、一つ一つの項目の「美」、「幸福」、「感動」、「愛」、「恋」などの意味は理解しているつもりであるが、そんなことではなく、「なんで人は美しいのがわかるのか?」、「人にとって幸福とは何か?なぜ追求するのか?」、「感動するとは何か?その際に身体的反応はなぜ伴うのか」、「愛するということはなんなのか?」、「愛と性とはどんな関係にあるのか」、「恋することとは何か?恋は一時的病気でないのか・・・」、というような動きのある心理状況についての興味である。

 通読はしていないが項目ごとには、以下の本を参考にしている。
??「人間性の心理学―モチベーションとパーソナリティ」A.H. マズロー著1987年。
??「ヒルガードの心理学 Ver14」。
??「そのほか関係書籍各種、特に、エミールシオランの思想など・・・・・・」。

 マズローは、人間の各種の欲求は、人をなんらかの行動に駆り立てる「動機づけ」として働く基本的な要因であると位置付けており、米国で最も権威のある心理学テキスト「ヒルガードの心理学」では、認知、審美的欲求を含めた「欲求7段階説」として解説され、以下のような順に並べてある。
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1 生理的欲求(食物、水、空気、性等)
2 安全の欲求(安定、保護、恐怖・不安からの自由等)
3 所属と愛の欲求(集団の一員であること、他者との愛情関係等)
4 承認(自尊心)の欲求(有能さ、自尊心、他者からの承認等)
5 認知の欲求(知ること、理解すること、探求すること)
6 審美的欲求(調和、秩序、美の追求)
7 自己実現の欲求(自分がなりうるものになること)
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納得できる分類だと思う。
このうち、1-4は社会生活の中の初期的、かつ必須の欲求であり、5-7はその充足の上に立って初めて湧き上がり成熟していく欲求、とみなされている。
 
私が興味のある分野は5-7が中心である。

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心理学を学ぶ(2) 「美しい」とは何か(1)
2020年03月21日 17時24分54秒 | コラム、エッセイ
 私は「美しい」ものが好きである。
 音楽、絵画、彫刻、人物、自然、花、動物、動物、女性・・・美しいと感じる全てを列挙する事は不可能である。私は「美しい」と感じる感性が備わったことを嬉しく思う。

 私は「美しい」に関して感受性は高い方だと思う。私以外の方々の感受性は全然分からないが、私がそういう感受性が豊かである事はとても恵まれている、と思う。
 私にとって「美しい」と感じることの意義は、新発見した「美しい」を介してその対象物に無関心ではいられなくなる事である。

 「美しい」の感動は私の視野を広げてくれる。

 この感覚、審美眼と言えるのかわからないが、生まれつき備わっていたのか、生きる過程で身についたのか、・・・・。実はまだよくは分からないが、後者だと思っている。
 なぜわれわれは、「美しい」ものを「美しい」と感じるのだろうか?

 脳の生理機能が徐々に明らかになってきた現代に生きて、「美しい」と感じる時、脳の中はどうなっているのだろうか??と思う。それにも関心はあるが、そんな事はさておき、ある人は「美しい」が分かり、別の人は「美しい」と感じないということが現実には存在する。こっちの方にも関心がある。

 どうして私は、主観的、個別的に多くのものに「美しい」と感じるのだろうか?
 それは「誕生前から私に備わった感覚ではなく、幼少児に親から受けた原始的な教育と、野山を駆け回った遊び、動物の飼育経験などをもとに個別に次々と「美しい」を発見し、感じ取る能力が育ったから」、と思う。

 「美しさ」は、「美しい」という感覚よりも、教育による「美に関する知識の獲得」で、より客観的に固定されているイメージで、より普遍的な感覚である。

 「美しい」と感じる心は教育の結果ではない。
 「美しさ」と「美しい」は互いに近いが、前者はあくまでもより客観で、後者は主観の個人的感覚である。

 私は、「美しい」の感覚は、各人がそれぞれに生涯を通じて創り上げるものだ、と考えている。
 私の場合、自分が″「美しい」と感じたことそのものが、「美しさ」の感覚の原点になっている、と考えている。

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心理学を学ぶ(3) 「美しい」とは何か(2) 「美しい」は安易に使われすぎている
2020年03月22日 05時01分39秒 | コラム、エッセイ
 「美しい」という言葉は日常安易に使われすぎている、と思う。これに近い内容はかつても記載したから、今回のは再掲に近い。

 購読している新聞3紙、購読誌の記事の見出し、広告記事に注目して2-3週にわたって集めてみた。私の書棚にも「美しい」というタイトルの本が2冊あった。
 以下のごとくの文例が見つかった。
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■ 「若くなるには、美しくなるには」 ■ 「美しく心暖まる作品だが,不安も」 ■ 「おしゃれ:美しく振舞う」 ■ 「美しく老いる」 ■ 「美しい笑顔になる」 ■ 「美しい文章を書く」 ■ 「美しく食べる」■ 「美しい若者よ」 ■ 「美しく美談に仕上げた戦場の話」 ■ 「美しい夕暮れ」 ■ 「LED、明るさから美しさに」 ■ 「あの眼は美しい」 ■ 「もっと美しいお前に」 ■ 「美しい箸使い」 ■ 「美しい文字を書く」 ■ 「いつまでも美しく」 ■ 「本:激しい生と美しい死」 ■ 「本 美しい国へ 安倍晋三・著」 ■ などなど
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 これらの中には正しい使われ方もある。

 「美しく老いる」、「美しい死」などの如くに「美しさ」と無縁の現実的な「美しくない」諸問題が「美しい」という単語を冠して前向きのイメージを無理矢理、言葉の演出として使われている。
 私は「美しい老い」、「美しい死」などは現実にはないと思っているからこんな安易な使われ方に違和感を持たざるを得ない。

 日本人は「美しい」という言葉の意味をそれほど考えずに「美しい」という枕詞を関することが好きだ。「美しくなる」と言う夢を売る化粧品などの広告に使われる機会が多いのには目を瞑るとしても、メディアに不用意に使っている例が多い。

 私も時々使うが、できるだけ少なくしようと努めている。「美しい」という言葉が好きな表現者は「美しくない」という言葉を使うことはない。「美しくない老い」、「美しくない死」の方を私は好む。
 「美しい」という枕詞は本来「美しくないもの」につけることによって本来忌むべき概念を否定してふんわりと容認できる様にする効能がある。しかし、意味不明な賛美の言葉で、現実否定にも繋がる。

 グルメ番組で、一見かわいい若い女優たちが一口試食して「美味しい!!!」,「スイーティ!!」というのに似ている。そんな表現なら誰でも出来る。言葉を聞く前に、彼女らの食べるマナー、箸の使い方、口元の動きを見てがっかりすることが多い。
 意味不明な賛美のとしての「美しい」の頻用はせっかくの文章をむしろ見すぼらしくする。

 私は「美しい」ものが好きだ。ただ、美しいとはどういうことを指すのか、まだ十分に分かったとは言えない。

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心理学を学ぶ(4) 「美しい」とは何か(4) 「美しい」は理屈では理解できない
2020年04月11日 05時47分29秒 | コラム、エッセイ
 私はコンサート、美術館などには頻回に行くが、基本的に一人で行く。
 興味ある企画展などの場合は家族と連れ立って行く場合はないわけではないが、でも決してその内容について求められてもコメントしたくない。家族たちもそれをわかっている。

 私の場合は、一般的に本当に美しいものに触れ、感動した場合、鳥肌が立つし、言葉さえ出ない。その後はうつ的にさえなる。
 今まで知り得ていなかった、過ぎ去った時間がとても大きなものを失ったような、気持ちが伴うからである。

 ざっと浮かんでくるような例を2-3上げれば、もう50年にもなるのだろうが、初めてアルビノーニのアダージョの存在を知った時、チマローザのレクイエムを知ったとき、大原美術館でエル・グレコの受胎告知を見たとき、ラファエロの数々の聖母像を知った時などである。
 私が感じ取る美しさは決して視覚的なものだけではない。優れた文学作品、著作に触れた場合にも感じられる。

 私は感動を言葉で評価するのは嫌いである。
 美を、感動を、あるいは感じた落胆ですらも口に出すのは好まない。感動や個人的評価はさっさと心の奥にしまい込む。呼び出したくもない。

 ただ、時間というのは厳しく無情なものである。時間の経過とともに感動の質が変わっていく。それを自覚するだけ悔しいが、ここで何らかの格好で記録しておきたい意欲に駆られてくる。
 美しいことを認識したこと、感動したことは代え難い価値がある。なんとしてでも記憶に残さなければならない。この行動がなければその時の感動は細切れになり、時には霧散する。

 しかしながら、真の意味での感動を表現する力は私にはない。

 美を感じることはその前にさらに重要な心理学的プロセスを通過することがわかる。それはショックであり、衝撃であり、次いで感動の過程に進む。感動の感情が美の認識の前に先行するから美しいことが一層美しくなり深い意味を持つのだ、と思う。

 だとすれば、感動とはなんだろうか、ということにも言及しなければならないことになる。

 何かまとめきれずに泥沼化しそうなテーマに首を突っ込んだように思う。


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心理学を学ぶ(5) 「美しい」とは何か(5) 感動が「美しい」を高める
2020年04月12日 11時10分12秒 | コラム、エッセイ
 「美しい」を感じることの前に心理的ショック、次いで感動が先行していると思う。私の場合はそうである。

 だとすれば、「感動とはなんだろうか」、ということを先に考察しなければならない。
 しかしながら、あらたまって「感動とは何か」を論じようとすると、それが余りに個人的な感覚なだけ、どこかとらえどころのない感じがあって、言葉に詰まる。

 感動した時に私は往往にして涙腺が緩む。鳥肌も立つ。情動のスイッチが入るだけでなく自律神経系も影響を受ける。
 感受性や共感性に欠けていれば「感動する」ことを理解すること自体難しいだろうし、自然の移ろいや、他人の情緒を理解・判断することも難しいだろう。それが分かる状態にある自分はとても恵まれていると思う。

 私の場合、「美しい」は感動の心理を背景にしている。自分の中に「美しい」という言葉を浮かべていなくても、「美しい」と感じているという自覚を持つていなくても、感動した時私は「美しい」と感じているのだろう。 

 「美しい」の感情は咄嵯に出る感動を伴う言葉で、合理的分析心は伴わないのが普通である。
 感動とは、知らず知らずに自覚してしまった自分自身の姿そのものである。そこには嘘はない。実際、何が起こつたのかはよく分からない心理だから戸惑いが生じてくる。

 なぜ感動したのか分からない自分自身の心に対して説明が必要になって、なんとか合理的に理屈をつけようとする。
 感動は日本語の頭として安易に、かつ、頻回に用いられる。

 「美しい」も安易に用いられ私は嫌なのであるが、「美しい」には「美しさ」というより客観的な定義があるからまだ許せる。
 感動は人から与えられるものでなく100%自分の心の中に湧き上がってくる心情で自身だけの心理である。他人から指示されて浮かべる心情ではない。

 しかしながら、安易な枕詞として、例えば「 感動的な場面」、「感動的な本」などなどと押し付けがましい表現が見られる。これは私は正しい日本語とは思わない。

 感動は形に表すのは困難な心情である。何か、似たような心理状況がないか??と探してみれば「一目惚れ」の心理にほぼ同じなのではないかと思う。
 だとすれば、難しい感動を論じる代わりに「一目惚れ」について代用する方がいいかもしれない。

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心理学を学ぶ(6) 「美しい」とは何か(6) 「一目惚れ」について(1)
2020年04月13日 17時06分06秒 | コラム、エッセイ
 「感動」について考えるときに類似の感情として「一目惚れ」の心理に代用させよう。

 「一目惚れ」は一般的に、自分の理想の異性が目の前に現れたとき、一気に気持ちが高ぶって好きになってしまう感情、とされる。確かに理想のタイプの人が目の前に現れたら、興奮と驚きから、一瞬にして頭が真っ白になりそうになる。このような感覚は人間関係だけでなく、趣味の世界でも成り立つ。対象は無生物でもいい。

 しかし、現代ではこの説明は正しくない。同性間でも生じうる現象だから、異性に対する感情と限定してはならない。

 私もどちらかというと「一目惚れ」しやすい人間だ、と思う。心の中では「一目惚れ」は毎日のごとく頻回に生じている。ただ、私は心の中だけの「一目惚れ」は「一目惚れ」と言わない方がいいと思う。アクションを伴わない「一目惚れ」はちょっと気に入ったレベルでしかないからである。

 「一目惚れ」した結果、なんらかのアクション、例えば物品なら衝動買いしたとか、女性なら思わず声をかけてしまった・・・ような具体的な行動に結びついた時だけに限定して自分の経験を考えてみたい。

 その視点で私の人生を振り返ってみれば「一目惚れ」を基にしたアクションを起こした経験は例外的な一件以外皆無と言っていい。

 私の人生の中で高額な商品の購入は、土地、住宅、ヴァイオリン、ハーレー、車などであろうがいずれも衝動買いの経験はなかった。じっくり資料を調べて納得して入手した。 

 私の人生の中で「一目惚れ」を基にした女性との付き合いは皆無であった。その面のエキスパートに言わせれば「なんとつまらない人生なんだ!!!!・・・」と言われそう。私も悔しいがそう思う。女性に対してあまりにも臆病すぎた。しかしながら、これが私の実態である。

 家内と一緒になってから48年になった。知り合ってから7年後、じっくり考えて選んだ。その判断は正しかったと私は思っているが、彼女はどう考えているのだろうか??謎である。
 「つまらない人と一緒になった」と言われることはある。もしかして、彼女の人生の可能性を狭めてしまったのか??とも思う。
 ここまでくれば、助け合って生きるしかないし、互いを将来の介護人として大切に、敬っていくことしかない。

 熱情、激情の乏しい人生だった。
 「美しい」を論じるために「感動とは」に逸れ、さらに「一目惚れ」に逸れてしまった。
 
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心理学を学ぶ(7) 「美しい」とは何か(7) 「一目惚れ」の心理(2) 私の体験
2020年04月18日 17時26分40秒 | コラム、エッセイ
 「感動」について考えるときに、類似の感情として大きな感動を伴う「一目惚れ」の心理に代用させたい。その方が説明しやすい。

 「一目惚れ」は一般的に、自分の理想として心で期待または熟成させていた人物や物品そのもの、あるいは類似のものが、思いがけず、急に目の前に現れたとき、一気に気持ちが高ぶって感動してしまう感情、とされる。人間関係だけでなく、趣味の世界でも成り立つ。対象は無生物でもいい。

 その視点で私の人生を振り返ってみれば「一目惚れ」を基にしたアクションを起こした経験は以下の一件以外皆無と言っていい。
 その対象は恥ずかしながら、ネコである。
 対人間関係という意味では、私は熱情、激情の乏しい人生だった。

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 私が大きく感動を受け、アクションに繋がった「一目惚れ」の経験は以下の一件しかあげることができない。

 私は小学校1年から高校卒業までの13年間共に暮らした一匹のネコがいた。白を基調とした三毛猫で表情は優しく、13年間いつも私の傍で一緒に過ごしていた。記憶に残る嬉しい、悲しいエピソードは数え切れない。
 「なんでお前はネコなんだ!!!」いつもそう思って抱きしめていた。

 私が浪人生活を送るために1964年4月に仙台に旅立ったが、間もなく母からネコが行方不明になったとのハガキが来た。最近とみに体力が衰えていたから残しておくのは後ろ髪引かれる思いだった。おそらく覚悟の死出の旅立ちをしたのだろうと納得した。
 実際には5月の連休の帰省時に短時間再開したのであるが、それが最後となった。

 私はそのネコの思い出を大事にし、以来30年間、いつもそのネコと共に生きていた。いつも話しかけ、嬉しいことはともに分かち合い、悩み事も相談した。口に出すとそれだけで落ち着いた。記憶は薄れることはなく、ネコのイメージは私とともに成長しつづけていた。
 他のネコに対しては全く興味を感じることはなく、余所のネコに触ったこともなかった。
 
 具体的期日は忘れたが、1991-2年ころであったと思う。2月で厳寒が続いていたが、我が家の居間の窓の外で数日前からノラネコと思われるネコの鳴き声が断続的に聞こえるようになっていた。当初は無視していたがあまりにもしつこく続くので追い払おうとカーテンを開けた。その瞬間、ネコと目が合った。そこには30年間暖め続けていた懐かしいネコの面影があった。瞬間、「美しい!!」と感じ、私の心の中に衝撃が走り、何かがプツンと切れた。次の瞬間、私は後先を考えずガラス戸を開けてそのネコを居間に招き入れていた。
 これが私にとって2匹目目となったネコ、ナンナンとの出会いであった。

 一瞬、目が合った時に私が受けた衝撃、感動は忘れられない。「美しい!!」と感じた。100%理屈、理性を超えた感情であった。
 いま、つらつら考えてみてこれぞ「一目惚れ」の心理なのだ、と納得している。

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心理学を学ぶ(8) 「美しい」とは何か(8) 「一目惚れ」の心理(3) 私の経験(2)
2020年04月19日 05時53分48秒 | コラム、エッセイ
 ちょっとは違うが、「感動」=「一目惚れ」と無理やり代用させたい。その方が私の場合説明しやすい。

 「一目惚れ」は一般的に、自分の理想として心で期待または熟成させていた人物や物品そのもの、あるいは類似のものが、■「思いがけず」、■「急に目の前に現れた」とき、■一気に気持ちが高ぶって感動してしまう感情、と言える。

 一般的に「一目惚れ」は男女間、同性間で恋愛感情のスタートとなる心の動きとして説明される。しかし、人間関係だけでなく、趣味の世界でも「一目惚れ」は成り立つ。対象は無生物でもいい。骨董品など「一目惚れ」してつい購入してしまった・・・などがその例といえる。

 私の場合の一目惚れの経験対象は、恥ずかしながら、ネコであった。
 初めてのネコと死別して以来約30年、私は心の中で思い出としてずっと旧交を温めていた。実際にはその間もネコの面影を追い求めていた、という事。

 ある日、窓の外でうるさく鳴いていたノラネコを追い払おうとカーテンを開けたが、ネコと目が合った瞬間、「似ている!!!」、「戻ってきたのではないか??」。心の中に衝撃が走り、心の中で何かがプツンと切れた。次の瞬間、私は後先を考えずガラス戸を開けていた。
 見下ろした位置に折るように組み合わされた白い毛に覆われたちっちゃな手が見えた。しかし、ノラネコはガラス戸が急に開けられたことが思いがけなかったのか、私に対する警戒感なのか、不安げな様子で直ぐには中に入ってこなかった。

 「・・・」私は言葉も出なかった。身動きどころか呼吸さえ忘れた私の前に、実体をともなつた思い出のネコがいる。何度も夢に見て、再開を強く願ったネコが、ほんのわずか手を伸せば届く距離にいる。 

 私だけが知つているその小さな身体は寒さなのか緊張のためなのか小刻みに震えていた。壊れそうな目をしていた。
 もう、駄日だつた。たつた一瞬で私の30年間の蓄積は粉々に砕け散つた。あの最後の別れ以来、いつも口に出して名前を呼び「逢いたい」と心から思ったネコがそこにいた。
 ひつたくるように家の中に招き入れた。そして「夢なら覚めないでほしい」・・・と思った。

 これが私にとって2匹目目となったネコ、ナンナンとの出会いであった。

 一瞬、目が合った時に私が受けた衝撃、感動は忘れられない。100%理屈、理性を超えた感情であった。
 いま、つらつら考えてみてこれぞ「一目惚れ」の心理なのだ、と納得している。

 ただ、不思議に思うのは、私が受けた衝撃、感動の対象は目の前にいるナンナンそのものでなく、1代目のネコの面影であった。


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心理学を学ぶ(9) 「美しい」とは何か(9) 「一目惚れ」の心理(4) 病気か??
2020年04月20日 05時41分58秒 | コラム、エッセイ
 「一目惚れ」は五感のうち「視覚」、「臭覚」、「聴覚」、「味覚」、「触覚」のいずれでも生じる。そのうちで一目惚れしやすい私の経験では「視覚」以外で惚れた、という経験はない。私にとっては「視覚」の持つ意味はとても大きい。

 もう一つ無視できない因子に「言葉」がある。
 心理学では人間が伝達する情報の中で「話す言葉」が占める比率はわずか7%に過ぎない、という研究結果がある。それは私にとっても同じで、ここ30年ほどラジオ深夜便を聴き続けているが、「ながら聴き」という状況ではあるがほとんど記憶に残らない。だから、目録を作り、連日録音し、印象に残った内容は聴き直ししている。

 しかし、「文章」の伝達力は、それが何%に当たるのかは知らないが、作者の筆力によってその伝達力が全く異なったものになる。その開きに唖然とする。素晴らしい文章に接した場合なんとも言えないイメージが心の中に生まれてくる。「一目惚れ」ではないが登場人物に惚れ込むことがある。だから私は本を読む。 
  
 しかしながら、実際の人間関係の中、交渉事などでは初対面の相手であっても、見た瞬間に受けるイメージから上手くいくか否かについて直感的に分かることが多い。

 一般的に、男性が美人(?)に、女性が二枚目の男に一目惚れをする場合、相手の性格やその他の要素は一切関係ない。それ以上に、「一目惚れ」を経て恋の真っ只中にいる人間にとつては往々にして「白も黒」も区別が付き難い状況になっている。これほど人間の感覚が狂うことは珍しい。だから、「一目惚れ」という現象に続く「恋愛感情」共に何か不明の病気に罹患している状況、としか思えない。

 端的にいって外見の威力はそれほどまでに強力である。

 私にとって2匹目となったのネコ「ナンナン」との出会いは強烈であった。私は目があった瞬間急病に陥った。実際には時間が経つにつれて分かってきたのは初代のネコとの違いであった。■美形さは「ナンナン」が優。■私とは距離を置いた付き合い。■気位が高く、不満を顔に表し、決して従順ではなかった。■時おり尿でマーキングされた。■・・・・。

 「ナンナン」は2010年5月に大好きな長女の腕に抱かれたまま旅立った。20歳近くだったと思われる。
 初代のネコとはイメージが異なっていたが、私は「ナンナン」を大事にした。しかしながら、大事にしていたのは「ナンナン」そのものでなく、初めて会った日の「美しい!!」との強烈な印象、初代のネコの思い出だったのだろう、と思う。「ナンナン」を介して実際には初代のネコを想っていた。それを「ナンナン」は敏感に感じ取っていたのだろう。

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心理学を学ぶ(10) 美しいとは何か(10) 好きなものには美を感じやすい
2020年05月04日 16時48分00秒 | コラム、エッセイ
 私が美しいと感じることには、やはり好きか否かが絡んでいるようだ。
 自然の移ろい、風景、草花などなど。女性の表情・姿・裸像など、に美しいと感じる。
 その対象が広くて具体的に挙げきれない。数々も名曲たち・・・もあるし。
 毎日が美しい事柄に囲まれて、私は実に恵まれている。

 私が美しいと感じることが出来るようになったのはいつからかは実は分からない。
 でも、自然に身についたものではなかろうと思う。欧米人はスズムシやコウロギの鳴く声を雑音と捉えるという。わが国では、万葉の時代から秋の風情を味わってきたようだ。この違いは、教育、文化の差によると思われる。

 だから、多分、私も誰かかから教わったのだろう。思い当たるのは、私が小学校4−5年の頃だったと思うが、とても情緒的な雰囲気を身につけた年上の従姉妹がいて、彼女はすでに大学生だったが、私を可愛がってくれた。正月やお盆の時などには私の家に来たが、そのたびに遊びながら、散歩しながら、色んな景色とかについて「綺麗、美しい・・」と言ったようなことを私に教えてくれたのが大きいと思った。
 今思い出すと私の情緒面の気付き、発達はこのようなことを機会に始まったように思う。
 当時、お風呂にも一緒に入ったが、本当に、純粋に、非エッチ的に、「なんで女性の体はこんなに滑らかで、柔らかで、形がいいのか!!!」と思ったものである。女性の美しさに目覚めた一瞬であった。この時の感覚は私にとっては衝撃的であり、そのショックは美を味わう対象として今まで続いている。

 私が、自分で周辺の事象を能動的に美しいと思い始めたのは中学校に入った時だったと思う。
 それは音楽から始まった。家には蓄音器とかがあって私のおもちゃになっていたが、SPレコードを通じて自然に音楽を好きになっていった。強烈に素晴らしさを実感したのはNHK交響楽団の盛岡公演の演奏を聴いた時、また、放送で名指揮者オイゲンヨッフム指揮でエグモント序曲を聴いた時、最初の和音が鳴った瞬間、一瞬全身に鳥肌が立った時であった。それ以降、ずっと音楽の美しさを味わい、追求し続けている。

 だから、美しさのを感じる対象が広すぎる。対象を絞ってみないと「何が美しいのか」についての話を進めることが出来ない。

 まず「女性の美につい」て考えてみるが、美の対象を絵画から始めることで、画家の目を通じた「女性の美について」間接的に味わうことにする。


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心理学を学ぶ(11)美しいとは何か(11)私にとって、音楽>絵画>文字>写真>その他(1)
2020年05月06日 16時08分22秒 | コラム、エッセイ
 私にとって、美しいと感じることができる世界は、音楽>絵画>文字>写真の順のような気がする。これは人類の発達過程と私の成長とも密接な関係があるようだ。

 音楽の歴史
 音楽の歴史などと固いことを言わなくとも、原始的な音楽は有史以前まで遡ることが出来る。
 おそらく最初の音楽は声である。楽器もいらない。だから、おそらく誰にでも原始的な素養は備えあっている、と考えられる。
■新生児の泣き声が原点か
■抑揚をつけて言葉を唱える
■感情をほとばしらせること

 おそらく最初の楽器は打楽器と推測できる。打楽器によってリズムが生まれた。古代人にとって、猛獣や害虫、天災から身を守ることが重要であり、古代の音楽は、そのために形を変えてきた、と考えられている。生活の安全を守ってくれる音楽は、後に祈りや祝祭などに用途を代え発展した。ハーモニーの誕生は中世のグレゴリオ聖歌あたりから。

 だから、原始的な音楽は人類の存在当時から存在する。人には誰でも音楽に対して何らか素養を備えていると思われる。
 だから人間にとって音楽は生まれながらにして備わっていた素養であり、あとは個人的に生かせるかどうか、だけである。

 私にとっての音楽はある程度幼少時から感受性が備わっていた、と考える。中学校までは音楽教師からも歌唱力を褒められた。私は音楽に接する時に何ら論理的である必要がない。音楽が存在していればそれだけでいい。なんらストレスも感じない。それだけで十分に美しさを感じ取ることができる。

 絵画の歴史
 音楽と異なり、絵画の技術は恐らく一部の技能を持つ人に限られていたのだろう。アルタミラ洞窟などで見られる動物や狩猟画など巧みな陰影処理など,その表現は極めて高度であると言われる。

 我々の絵画は遊びや教育を通じて行われている。幼少時のお絵かき、塗り絵、図工の時間など。
 私には全く才能は感じない。決して嫌いではなかったが、同級生で一人だけ抜きん出て絵が上手く感心していた。彼は画家になったが早逝した。三陸訪問(1) 郷里の岩手山の勇姿を見て、亡き同級生を思う

 私が絵画の世界に目覚めたのは1982年大原美術館でエル・グレコの「受胎告知」を見た時に遡る。
 それ以降、画集収集を始めた。
 優れた絵画には主張点があるはずであるが、私は美しさはわかっても、解説書を見なければその良さを感じ取れない。私にとってはまだまだ遠い世界である。

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心理学を学ぶ(12)美しいとは何か(12)私にとって、音楽>絵画>文字>写真>その他(2)2020年05月07日 15時26分31秒 | コラム、エッセイ

 文字を読む.
 
 私にとって、美しいと感じることができる世界は、音楽、絵画に次いで文学を上げなければならない。
 さいわい私は文字情報への感受性、想像力が豊からしく、美しい文体と優れたストーリーがあると容易にそのシーンに、登場人物に入り込むことができる。読んでいる間中主人公になりきっていることもある。

 私は幼少期から本に親しんできた。何故か小学生向きの「世界少年少女文学全集」、「日本昔ばなし」、「伝記」などの全集ものがあった。古いもので、私が買ってもらったという記憶はないから兄のために購入したものかもしれない。比較的早熟で小学入学前からつっかえつっかえのレベルでなんとか読めていた。アラビアンナイト物語を始め、冒険もの、偉人の伝記など気に入って読んでいた。そのうちの一部は昭和27年、類焼によって自宅が全焼し焼失した。

 高校時代後半は全てを投げ打って大学受験優先の生活したので本を読むことは少なかった。
 大学入学後はその反動で堰を切ったように読書に集中した。有名な内外の文学作品はほとんど網羅したが、当時は読んだ、触れた、読破した、という実績を積むことが目的になって十分味わったとは言い難い。
 そのために、印象が浅かったためか大部分忘れている。
 大学時代の乱読期以降、翻訳物はほとんど読んでいない。内容的に良くてもどうしても訳文に満足できなかったからである。このころから日本語の優れた表現力に美しさを感じ、関心を持ったからである。

 医師になってからは時間的制約はあったが、結構読んだ。経済的に若干の余裕ができたために広いジャンルの書籍を購入、大部分は積ん読であったが、読みたいと思った書籍が身近にあったことは、たとえ読めなかったとしても私の生活に大きな潤いとなった。

 現役を退いてからは蔵書の処分を開始して今に至っている。書籍を裁断し、スキャナーで取り込み、それをパソコンやタブレットで読む。書籍を直接読んでいた時以上に読書量が増え、満足している。今は速読、乱読はしない。文章の美しさを味わいながら。じっくり読む。

 私は均整のとれた、文章に美しさを感じ取る。小説、短歌俳句詩歌などなどに。





差別感情の発達(2022)

  人間社会では、いかなる文明、社会においても、好むと好まざるに関わらず、誰しも性別、人種、年齢、出身地、職業、障害の有無、貧富、などの格差の中で生きていかざるを得ない。
 この格差をもとに、ありとあらゆる事項において「偏見・差別」が生じる、と私は思う。
 「偏見・差別」感情を持つことはいけないことだと教えられるがそれは間違っている。
 絶対になくならない、と思う。

 各人の心の中に「偏見・差別」感情は必ず内在する。この感情がないと力強く生きていけないからである。

 そしてこの「偏見・差別」感が内在しているうちはいいのだが、外に向かってアクションを起こす時、そこには人権侵害の形をとる。

 人間は成長過程で免疫学的に完全に個が確立される。
 他方、人間の成長過程において、知的な意味において「自我」が確立していく。

 この自我は、「免疫学的個人」よりは多少ゆるいところがあるが、「免疫学的個人」と同様にほぼ完全な個の確立と言っていい。ただ、「自我による個人」の確立は本人の知性、社会的常識観などで抑制され、日常顔を出さないこともある。教育も一部効果的である。

 自我の確立とともに、各個人はこの世の不平等の中に自分が置かれていることを自覚し、次第にその差別感を強く意識していく。
 その際に「偏見・差別感情」が形成されるが、一部の人は「偏見・差別感情」をテコに大きく飛躍していく。そういう人たちの心の中では「偏見・差別感情」は大きく育ち、次第に外に向かってアクションするようになっていく。その形は「優位な立場」では他人への侵害・障害に走り、自己増殖する。劣位の人は屈辱に甘んじる事になる。

 要するに、私がここで述べたいのは「偏見・差別感情」は誰しも持つ普遍的感情である、ということ。
 「偏見・差別感情」を持つのは当然のこと、ならば、その外向きの表現で他人への侵害はどうしようもないのかというと、「偏見・差別感情」を悪しき方向で行動に移さないことである。

 その端的な方法論の一つは、自己研鑽によって自己の立場を理解すること、差別の自害者の立場の人たちを多方面から学ぶことである。
 差別感情の発露は優越感、と無知から発している。


 この度、差別感情について以下の項目別に考察した。

?「差別の心理」(1) 「偏見や差別」は生きるエネルギー源
?「差別の心理」(2) 「偏見や差別」は社会集団にも生じる
?「差別の心理」(3) 優位性の意識から
?「差別の心理」(4) 自分の優位性、自尊心から
?「差別の心理」(5) 自尊心=差別感 だから差別は無くならない
?「差別の心理」(6) 「自分は常識人・・」、に由来する優越感
?「差別の心理」(7) 社会的立場に由来する優越感
?「差別の心理」(8) 共同体帰属に由来する優越感(1)
?「差別の心理」(9) 共同体帰属に由来する優越感(2)
?「差別の心理」(10) 新型コロナと差別(1) 私の周辺では
?「差別の心理」(11) 新型コロナと差別(2) 知識が差別行動を抑制
?「差別の心理」(12) 新型コロナと差別(3)
?「差別の心理」(13) 新型コロナと差別(4) 攻撃より寛容
?「差別の心理」(15) 免疫的には他人を100%排除する
?「差別の心理」(16) 家庭で、学校で育つ差別感

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?「差別の心理」(1) 「偏見や差別」は生きるエネルギー源
 最近、小説「あん」を読んでハンセン病の差別を考えた。ハンセン病の差別の背景には医学会も、政治も社会も深く関与している。
 差別を受けた人は人生が否定された気持ちになる。差別を受けていない人は偶然自分がその環境に生まれなかっただけ。その差別を受ける立場を自分に置き換えて考えてみてほしい、と訴えている。切実な気持ちである。

 差別の心理について考えてみた。
 人間社会では、いかなる文明、社会においても、好むと好まざるに関わらず、誰しも性別、人種、年齢、出身地、職業、障害の有無、貧富、などの格差の中で生きていかざるを得ない。
 この格差をもとに、ありとあらゆる事項において「偏見・差別」が生じる、と私は思う。
 「偏見・差別」感情を持つことはいけないことだと教えられるがそれは間違っている。絶対になくならない、と思う。
 各人の心の中に「偏見・差別」感情は必ず内在する。この感情がないと力強く生きていけないからである。

 今は新型コロナウイルスが話題になっており、ワクチン問題を介して人間の免疫形成等についての話題が盛り上がって、国民に多少免疫についての知識も増えているようである。
 人間は成長過程で免疫学的に完全に個が確立される。例外は一卵性双生児間だけである。たとえ親子間であっても兄弟間であっても免疫学的には完全に、絶対的に他人である。「免疫学的個人」の確立の目的は完全な他者の排除にあり、他人同士の臓器移植は基本的にうまくいかない。そのことが免疫力を背景にした疾患防御力、疾患からの回復力になる。

 他方、人間の成長過程において、知的な意味において「自我」が確立していく。
 乳児のイヤイヤ期、幼児の反抗期、青少年の権力への反抗心などは自我の形成過程で生じてくる。
 この自我は、「免疫学的個人」よりは多少ゆるいところがあり、教育や環境で変わりうるが、「免疫学的個人」と同様にほぼ完全な個の確立と言っていい。ただ、「自我による個人」の確立は本人の知性、社会的常識観などで抑制され、日常顔を出さないこともある。教育も一部効果的である。
 自我の確立とともに、各個人はこの世の不平等の中に自分が置かれていることを自覚し、次第にその抑圧感に苛まれていく。その際に「偏見・差別感情」が形成されるが、多くは諦め、達観を介して乗り切っていくが、一部の人は「偏見・差別感情」をテコに大きく飛躍していく。そういう人たちの心の中では「偏見・差別感情」は大きく育っていく。

 要するに、ここで述べたいのは「偏見・差別感情」は誰しも持つ普遍的感情である、ということ。
 「偏見・差別感情」を持つのは当然のこと、ならば、差別などどうしようもないのかというと、「偏見・差別感情」を悪しき方向で行動に移さないことである。
その端的な方法論の一つは、自己研鑽によって自己の立場を理解すること、差別の対象者の置かれている立場の人たちを多方面から学ぶことである。差別感情の発露は互いの無知から発している。

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?「差別の心理」(2) 「偏見や差別」は社会集団にも生じる
 どうすれば「偏見・差別感情」をなくすことができるのか??

 私の考えを結論から言えば、「偏見・差別感情」はなくすることは出来ない。仮にそのような理想的な(??)個人の集まりによって社会が成立すれば、その社会は活力を失い、滅亡していくだろう。」なんとなれば「偏見・差別感情」に基づいた思考は人間としての生きるエネルギー源だからである。
 問題は「偏見・差別感情」に基づいた攻撃的行動をなくすることで、これは教育などで可能である。法による規制もやむを得ないないだろう。しかし、ハンセンなどで見る限り、教育も法も十分な効果を上げているとは思えない。

 なぜ偏見や差別が生じてしまうのか??
 それは、個々人の存在理由(アイデンティティ)を有しているからで、アイデンティティの確立は人間の成長にとって必要不可欠なことである。それが「自己肯定感」にもなるのだが、安易に攻撃的アクションを起こすことが問題である。

 社会集団から生まれる偏見や差別もある。
 私は個人が持つ「偏見・差別感情」は自我の形成の結果であって当然と考えている。
 ところが、これは社会集団に属している人間にも生じる心理である。
 アイデンティティは個人だけではなく、社会集団の中でも生じうる。「普通」の存在でいたがる人の多い日本人は、自分を安全な大きな集団に属させながら、マイノリティー集団を差別することで安堵感を抱きがちである。

 人間が営む社会生活において、集団としてもあらゆる状況や場面で偏見や差別が生まれているといっても過言ではない。思想家吉本隆明氏のいう共同幻想依存症だと思う。
 共同幻想依存は「ある集団に属する人々は、特定の性格や資質をみんなが持っているように見えたり、信じたりする認知的な傾向」、偏見は「好感、憧憬、嫌悪、軽蔑といった感情を伴ったもの」ということになる。
 これは社会の問題であるが、個人の問題とほぼ同一のことである。
 そして差別は「偏見・差別感情」を根拠に、集団的に接近・回避、攻撃などの行動として現れる。
 
 社会心理学では、人には味方と敵を分ける心理が働き、自分にとっての敵を区別するのが基本的な考え方とされる。
 外国人差別はこの典型的なパターン。簡単に言えばナショナリズム。
 ヘイトスピーチの対象となりがちな在日韓国人や中国人は、日本人にとって身近な存在だからこそ、自分たちを脅かしうる敵だと判別されやすく、偏見や差別が頻発する。

 「偏見や差別」にさらされる対象は、「LGBT」や「障害者」などのようにマイノリティー側であることが多い。日本のマイノリティー差別の問題について、自分たちが社会の中で「普通」の「安全な、より正しい」存在だと考える傾向がある。

 マイノリティーへの「偏見や差別」を防止するにはマイノリティーの人々への理解を深めることが重要であるが、それ以上に必要なのは自分自身に対する考察で、倫理観の高揚である。


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?「差別の心理」(3) 優位性の意識から
 「心理学を学ぶ」は今年の3月から。新型コロナについての勉強も必要で、なかなか進んでいない。
「美しいとは何か」、「匿名での行動」を取り上げたが、最近は「差別」について考えている。
 
 心理学の中で差別感はとても重要だ、と思う。
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心理学を学ぶ(27) 「差別の心理」(1) 「偏見や差別」は生きるエネルギー源(8月5日)
心理学を学ぶ(28) 「差別の心理」(2) 「偏見や差別」は社会集団にも生じる(8月6日)
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 私は差別感というのは個人の自我の形成に伴って必ず身につくもので、個々人が生きるエネルギーであり、あらゆる場面で、心の表に出てくるものだと思う。

 まず、私は差別について語るときに、差別感情を抱くのは人間として当然のことと認めよう。そこから始めなければ進められない。だが、その感情をネガティブな行動に、例えば「いじめ」、「ハラスメント」等に、結びつけていいということとは決して同格ではない。

 国際的な差別問題でも、ナショナリズム、人種差別、国別の差別、肌の色による差別感、歴史観、経済格差など。かつての日本人は経済的優位性で他国を差別していなかったであろうか。GNPなどの指標が次々と中国に抜かれる現実にショックを受けていないかな?これからは差別を受ける側になるかも。
 国内問題でも差別問題、アイヌ民族に対して差別感はないか?能力、家柄、収入とか父親の社会的立場を背景にした差別感はないか?男社会の優位性を感じないか?

 差別問題といえば常に差別感を無くそう、という話題になる。
 我々は差別感解消を求めていくのではなく、各人が心理の内に持っている差別感情について徹底的に考え、それを足蹴にすることである。尤も、足蹴にしても解消には結びつかないだろう。差別感はあって当たり前、なくすることはできないのだ。
 問題にすべきは差別に起因する行動をいかに抑制できるか、にかかっている。

 「差別感」をわかりやすく論じるには「格差」を背景に考えるのがわかりやすい。
 
 自我の中においては自分の優位性を模索し、自分を他者や外界から区別して成り立たせる格差の発見は、行動や意識の主体となる。精神分析でいえばで、現実への適応を行わせる精神発達の一側面である。その時に人は必ず他に対する格差、優位性を意識する。

 「差別感」を「格差」を背景に優位性の意識と考えるのがわかりやすい。
 自分自身に対する優位性の意識、他者に感じる劣勢の意識が差別の意識を形成し、自分が存在できるエネルギーの元になる。
 あらゆることで、優位性を意識しなくなる時、自分の存在意義が乏しくなる。

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?「差別の心理」(4) 自分の優位性、自尊心から
 心理学の中でも「差別感」はとても重要だ、と思う。あらゆる心の働きにリンクしているからである。

 差別感のルーツは格差の自覚に起因する。
 他者との比較において自分自身に対する優位性の自覚である。自尊心と言い換えてもいい。自尊心はさらに「自己肯定感」、「プライド」と置き換えてもいい。
 
 自尊心とは、一般的には、自分を他人より高く位置付けようとする感情ないし態度のことで、人は自分の存在を価値あるものとして肯定したい願望を意識的、無意識的にもっている。これが人だけにある自尊心にほかならない。
 自尊心のスタートは、ほとんどの両親が自分の子供に与える好意的評価の表現にあると思われる。親は可及的豊かに新生児に話しかけなければならない。親バカ的表現でもいい。とにかく褒めることである。子供たちは、こうした価値づけを全面的あるいは部分的に受け入れ、それ以後の自分の成長、経験と評価をそれに一致させようと努力する。
 したがって、幼少時に両親が子供に頻繁に否定的な評価を与えれば、子供は自分自身に対するこの見方を後世まで受け入れてしまい、自分をだめな人間と決め込んでしまい、自尊心の低い人間になる。

 「自尊心」が表す意味には「尊大である」という否定的ニュアンスが伴いがちであり、そのため「自己肯定感」や「プライド」などの表現が用いられる。

 成長過程で身についた、自分に対する肯定的感情が、実は後の差別のルーツでもある。動物と異なる所以でもある。我々人間はよりよきものを目指すという普遍的に備わっている。人間の知能、心理はそこまで発達している。誰もが、大なり小なり自分に対する肯定的感情を備えている。

 我々人間が「成長の過程で、生活の過程で、より良いことを目指し続ける限り」差別は無くならないであろう。「より良いこと」の背景には「より良いことではないこと」を押しのけ、それを凌駕し続けなければならないからである。

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?「差別の心理」(5) 自尊心=差別感 だから差別は無くならない
 心理学の中でも「差別感」はとても重要だ、と思う。あらゆる心の働きにリンクしている。「いじめ」にも深い関係にある。

 差別感のルーツは格差の自覚に起因する。その格差の気持ちは「自尊心」、「優越感」、「自己肯定感」、「プライド」・・・などの言葉と置き換えられる。多少のニュアンスの違いがあるが大きな問題ではない。
 
 人は「自分の存在を価値あるものとして肯定したい願望」を意識的、無意識的にもっている。これが人だけにある「自己肯定感」にほかならない。これは人間だけに備わった「今以上に良き状態を求める」という欲望にも結びつく。すなわち、人間に備わった「エゴ心」である。

 いい面で言えば、文明・文化の発達のルーツであり、他人より優位でありたいという差別感のルーツである。
 マイナス面で言えば、人間の「エゴ心」で、例えて言えば、地球環境は「エゴ心」のためどんどん悪化、■採取・乱獲、■森林伐採、■環境汚染、■温暖化、■不用意な外来種導入、■里山の管理放置・・・などをもたらし、他の動物の存在を脅かし絶滅にいたらしめた。いや、人間自身が「エゴ心」のために絶滅品種の一つ、となっている。

 成長過程で身についた、自分に対する「肯定的感情」が、実は後の差別のルーツでもある。他の動物にはない感情とされている。彼らには差別感なんてないのだ。
 我々人間には、「今以上によりよきものを目指す」という欲望が普遍的に備わっている。人間の知能、心理はそこまで発達している。誰もが、自分に対する肯定的感情を備え、それを元に前向きの意欲が出る。

 われわれ人間が「より良い状況を目指し続ける限り」差別は無くならない。「より良いこと」の背景には「より良いことではないこと」を否定し、押しのけ、それを凌駕し続けなければならない。これが差別感である。

 一般的に、常識人や教育者達は「差別感を抱くことは良くないこと・」、「差別感を教育とかを通じてなくしなければならない」との主張するが、これは正しくない。その主張している限り差別はなくならない。

 「いじめの根絶」、これも重要なテーマであるが、差別感情がある限り、差別感情があるから人は生きられるのだから、いじめは複数の人間がいれば、多数の人間がいればなおさらのこと、その間で生じて当たり前。だから、「いじめ」も、「不和」も「DV」も決してなくならない。

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?「差別の心理」(6) 「自分は常識人・・」、に由来する優越感
 差別に結びつく心理として、「自分は常識人」であるという判断に潜む差別感情態度は極めて危険である。
 常識人であるという言葉が持つプレッシャーは特に日本の社会では大変なものである。

 なぜなら 差別問題におい「自分は常識人」である判断基準を当たり前のように、非反省的に使って世を批判いたくてうずうずしている人は多数いるからである。最近のネット中傷などこれに由来している。

 それは世の中で古くから言い伝えられてきた常識的因習などを背景にしている。例えば、男として外で働くのは自然のことだ、女は子供を産むのは自然のことだ、義務教育の間は学校に行くのは当たり前だ、そんなことは日本人として不自然だ、・・・というように、そう主張する人は、自分の考え方が自然である、という言葉を用いることによって、すべての議論を終らせようとする。よく考えない、怠惰な人達なのである。 

 「自分は常識人・・」という人は、そこに潜む間題をあらためて見なおすことを拒否し、思考を停止させている人である。常識的考え方を背景に、その鈍い刀ですべてをなぎ倒す。あたかもマニュアル重視者がマニュアルを遵守することだけを重要と考え、ほとんど応用力を持たない状態に陥っているようなものである。 

 差別を論じた時に、相手が「自分は常識人・・」という言葉を使用したら用心しなければならない。差別感情の考察においてこのような人たちは差別問題を真剣に考えている人にとって最も手ごわい敵でもある。 
 なぜなら、彼らはまったく自らの脳髄で、あるいは心を駆使して思考しないで、ただ世間を支配する空気に合わせて少数派を裁いているのだ。だから、罪が重い。
 しかも、そのことに気づかず、気づこうとしないのだからさらに罪が重い。

 息子に家出されたある父親は「私が彼に求めた要求は、ほぼあたりまえの常識的なことじやないか!!!」と述べていたが、そういう考えが息子を追い詰めたのだ。そのことを今だに父は自覚していない。その父はもう十分すぎるほど苦しんでいたが、考えを変えることがなければ、息子の気持ちを死ぬまで理解できないのだろう。 
 
 差別に対峙とき、最大の敵はよく考えないことである。あらゆる差別問題はよく考え
ないこと、すなわち思考の怠惰、思考の停止から発生する。
 
 差別について、差別の対象者についてよく考えれば、すさまじく複雑に入り組んでいる問題が鮮明に見えてくる。よく考えない者にはそれが見えてこない。見えてこないから 単純に思い込む。
 こういう怠惰な人達が差別における最大の加害者である。
 しかも、自分が加害者であるとはちっとも思つていない、鈍感きわまりない加害者である。だから差別問題は根が深い。



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?「差別の心理」(7) 社会的立場に由来する優越感
 人間は社会的動物だから一人で生きてはいけず必ず何らかの集団に属さねばならない。

 私は新潟大学の教養課程で社会学を選択した。人間の歴史の中で太古の時代から現在まで、社会がどのように形成し発展したのかなど何も知らなかった。私は社会学の講義に大きな衝撃を受けた。今でも社会の有り様を考えることが好きであるが、そのルーツはここから始まっている。

 社会学では共同体をゲマイシャフトとゲゼルシャフトに2大別している。ともにドイツの学者の考え方の集大成である。適当な和訳がないので私は今でもそのまま用いる。

 ゲマインシャフトは最も本来的,自然的状態としての人々の意志に関わらない完全な統一体,すなわち、あらゆる分離の試みにもかかわらず本質的に結合し続けている社会のことである。それには、家族、地縁社会,友情社会の3つを典型的形態とした。この概念は,社会の類型,人間の結合関係を示すだけではなく,社会の歴史的考察の原理ともなる。

 これに対して、ゲゼルシャフトは利益社会の結びつきである。選択意思を基礎として形成される社会関係を言い、実用主義的合理主義,都会的ないしは産業的文明よ生まれる人為的,機械的な,互いに相手を手段とする打算的契約関係を特色とする社会である。これは離れるのも参加するのもほぼ自由意志でできる共同体である。

 卑近な例で言えば親子・同胞関係 vs 恋人・夫婦関係に例えられる。後者であれば自由意思によって別れることは可能であるが、前者は感情的な、あるいは法的な結びつきも堅固で一般的には別れることが困難な関係である。

 ゲマインシャフトにせよ、ゲゼルシャフトにせよこの集団に属した立場、ここは一般的に居心地がよく安全である。
 大部分の方は、ごく自然に、国、民族、故郷、家族、出身校などを愛して、同行の人達と共同体を形成する。この共同体にはすでに個々に性格があり、このことが差別感情が生じうる一因となる。

 心から愛することができる共同体をもっている人は幸せである。
 しかし、その幸せ感がそのまま他の者を何らかの形で排除する感情に繋がっていく。
 
 帰属意識を愛することに由来する差別感情はある意味で自然であり、それは人間が社会的動物であることから自然に導かれる。その場合、ある人が属する集団と他の人が属する集団には必ず内容的にも、力関係でもランクづけが生じてくる。
 
 われわれは、ある共同体に所属していることによって、身の安全を得るのであり心の落ち着きを得る。また生活の基盤を得る。



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?「差別の心理」(8) 共同体帰属に由来する優越感(1)
 人間は社会的動物だから一人で生きてはいけず、必ず何らかの集団に属さねばならない。

 社会の共同体の考え方のうちゲマインシャフトは個人に選択肢はない。
 生まれ落ちた時点で帰属が決まっている。その共同体のありように自らは何も貢献していない。国、民族、故郷、家族などであるが、通常はこの環境の中で自我の形成がなされていくから、基本的にはこの共同体を好み、愛している。もちろん成長とともに批判する余裕も出てくるが基本的には離れることはできない。
 この共同体には個々に性格があり、他の共同体との間にランク付けが決まっている。自分が属する共同体のランクが上位にあると思う優越感が差別感情が生じる一因となる。

 国、民族の優位性に由来する差別感は、例えば、戦前の日本民族の欧米に対する卑屈な劣等意識、それに反動してか、アジア諸国に対するいわれのない優越感にも現れる。
 ナチスのユダヤ人差別によるホロコースト、現在も続くヘイトスピーチ等に現れる。アイヌ民族に対する差別感はないのだろうか。

 それに比較すると故郷に対する誇りは現代のグローバル社会においては一般的に結びつきは強くない。しかし、根底には根強いものがある。その一端は差別問題などに現れている。
 意外と、学歴社会の中では、特に勝ち組に属するエリートたちの同窓意識は半端でない。負け組は一般に結束力は弱い。負け組は同窓意識で落ちこぼれであり、庇護される機会は少ない。

 家族・家庭は現在社会においては崩壊傾向にあるが、時には家柄、そだち、経済状態を背景に、また、異常な心理状態を背景にした毋娘関係において堅固な結びつきが見られる。各家庭単位の秘匿性、排他性、他の家庭への容認しがたい批判感情は、その関係が利害関係がある近隣間の家庭で繰り広げられる。感染症、遺伝病などを抱えた家庭、犯罪者が出た家庭に対する受け入れがたい感情は家庭の中の会話や指導で形成されて行く。時に、村八分的差別に直結する。

 このゲマインシャフトの帰属性は互いの「縁」であり、均一性が求められ、互いの監視の目で互いを縛り、最近再注目されてきた同調圧力が吸引力の一因になっている。特に個人主義的価値判断が強い欧米に対して集団の価値判断が優先する日本社会の特徴の一つである。

 新型コロナ対策の緊急事態宣言は個人の自覚の範囲で衛生思想の喚起と、外出自粛への協力であった。初期には大きな効果が見られたが、その背景には互いの行動を監視し合うという日本独特の同調圧力をあてにしたものであった。

 その結果、新型コロナ感染者への差別、医療関係者及びその家族たちへの偏見、差別行動がいまだに収まらない。
 ウイルスよりも「常識人と自認する人たちの差別」、「同調を求める圧力」の方が手をつけられない状況にある。


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?「差別の心理」(9) 共同体帰属に由来する優越感(2)
 社会の共同体の考え方のうちゲマインシャフトは基本的に「縁」に由来している。だから個人に帰属、離脱の選択肢はない。

 これに対して、利益社会の結びつきであるゲゼルシャフトは選択意思を基礎として形成される。
 実用主義的合理性,経済活動を中心に据えた人為的,機械的な,互いに相手を利用する打算的契約関係を特色とする。

 これは離れるのも参加するのもほぼ自由意志でできる共同体であるが、そこに存在続けるにはその共同体に対して一定の義務を果たすこと求められる。

 かつては日本の雇用関係は終身雇用制を背景にした結束の強い共同体であった。ここから離脱することは生活基盤を失うことでもあった。労働者は会社に忠誠を誓い、持てる能力の何倍も必死に努力した。会社も労働者を、その家族も含めて庇護してきた。一昔前、会社主催の家族旅行、盆踊り大会、運動会、野球大会などが開催されていた。このような労使関係は日本の経済復興過程では高い生産性を上げたが、発展途上国の経済力が向上して先進国は搾取の旨みが薄れてきた近年、特にグローバル経済の流れの中では日本型雇用関係は非効率となり、ここ20年ほど就労関係は大きく変容を遂げた。すなわち、正規職員による雇用制から非正規労働者中心の労使関係にシフトしている。

 この実用主義的合理性を備えた組織への帰属は、能力という意味で高い均一性が求められ高い生産性が求められる。そのことが落ちこぼれを生じさせ、職場内のいじめやパワハラ、セクハラの温床になっている。

 社会を構成する人間に自我があり、より良き状態を求めるという人間の欲求・エゴがある限り、社会やコミュニティは差別感情の温床であり坩堝になりうる。

 この差別意識は個人のアイデンティティそのものであり、人間の心の中から無くすることはできない。
 だから、差別意識への対応は個人の問題から「社会の考え方を無理矢理変えて行く」しかない。その手段は第一には法律ということになるが、法による規制は人間の心の中までは及ばない。次の手は教育、ということになろう。

 ところが、新型コロナの蔓延は会社組織に急速な変化をもたらしつつある。多くの分野でテレワークが導入されつつある。新型コロナはワクチンとかが実用化したとしても完全収束は考えがたい。そのために労働者は集団で一箇所に集まって仕事する分野が製造業では残るだろうが、労働者は分散して働き業務内容が集合される時代になろうとしている。
 こんな労使関係の変化を迎えて、おそらく企業間の差別意識、企業内の差別意識に変化をきたすようになる可能性が出てきた。


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?「差別の心理」(10) 新型コロナと差別(1) 私の周辺では
 これからは新型コロナと差別について考察する。

 私がコロナに関する差別感を直接感じたのは、3週間ほど前、バスの中でマスクをしていない私を不快そうに、非難をこめた目で激しく見つめ、講義のためだろう、私の近くの席から遠い席に移っていった20代後半の女性の行動だけである。あの表情はすごかった。般若の形相であった。

 もう一つは、「先生の車は横浜ナンバーなんですね。秋田に住んでいますと表示してはどうですか?」と助言されたことである。私は横浜ナンバーだからといって特別気まずい思いをしてないが、そんなことまで意識する人がいるのだ、と感心した。

 他県のナンバー車には22年も乗っている。そのことを意識するのは年に一回の納税の時だけ。こんなプレートにそれ以外の役目があるか考えたこともなかつたが、いまさらながらこの薄い金属板にも意味があるのだと気いた。
 要するに、人を秋田県在住の人間なのか、否かを区別する記号だつたのだ。「お前は外様なんだぞ、忘れるな!!」と宣言された様な気がした。

 確かにコロナの緊急事態宣言後、世の中はそうなっている。外国からの客は入国が難しいだけでなく、国内の移動もままならない状況にある。 

 娘は横浜在で年に何度も一家で帰省していたが、4月以降は連休の時も墓参りの時も郷里に帰れなかった。年末年始に関してもどうなるかわからない。
 
 秋田県では感染経験者は50名ほどいるが、その全ての方々は入院対象となり、3蜜にならない様配慮した通常の生活環境では感染の危険は皆無に等しい。それでも、秋田では感染者の周辺で、医療関係者の家族などに誹謗中傷が生じている、という。

 感染者に対して、何らかの感情を持つことは人間である限り止むを得ないが、誹謗中傷の行動をするか否かは社会人としての次のレベルの問題である。


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?「差別の心理」(11) 新型コロナと差別(2) 知識が差別行動を抑制
 コロナの対策は、蔓延状況にふさわしい判断がなされるべきであって、全国一斉の学校休校、緊急事態宣伝などには疑問に思いながら、私は引退した身であるからしょうがないと国や県が言い出した安全策に渋々従っている。

 世界中で新型コロナ禍が差別を加速させている。
 多くの方々は、新型コロナについて、マスコミのいいなりに全てを受身的に受け入れていて、独自の考えを持つレベルではない、ほとんど無知に近い。このことは大衆文化的に見ればやむを得ないことである。しかし、その無知が不安を呼び、不安が差別を生む、という負のスパイラルが生じている。
 日本は欧米諸国と比べ新型コロナの感染者数や死者数が少ないにもかかわらず、緊急事態宣言発令中も営業している店に貼り紙したりする様な差別行動が目立った。

 彼らの行動は自粛警察と呼ばれている。 

 自粛警察とは「世間のルールに反したものに対して、何ら責める資格もなく、法的根拠もなく、権利や人権も無視し、世間が事実上の処罰をおこなっている状況」である。

 日本のコロナ緊急事態宣言が、欧米のように国民や企業の活動を罰則付きで強制的に制限する措置を講じず、「お願い」による休業要請となった。欧米のマスコミなどはこんなことで効果があるのか?と総じてバカにしていた様であった。しかしながら、日本では欧米以上に一定の感染抑制効果を上げた。その要因として世間による同調圧力の強さを挙げる(参考:鴻上ほか 「同調圧力」--日本社会はなぜ息苦しいのか 講談社現代新書 2020年)。

 日本には、強く同質性を求める相互監視の文化があった。戦時中の「となりぐみ」の雰囲気は地域社会の結びつきの衰退とともに影を潜めていたが、コロナ禍によって再肥大した。 

 新型コロナというリスクは基本的に自己責任で乗り越えるべきだ。だから、要請に従わない人間に対しては、それを告発し、厳罰を加え、社会の安全を維持しなければならない、ということになる。

 3月下旬から4月中旬にかけて5力国、日米英伊中で行った一般市民調査をまとめた結果がある(朝日新聞Globe 7月11日)。その中で「感染する人は自業自得だ、と思う」は日本が断トツで11.5%を記録している。これは個人主義の米国の10倍の水準であった。さらに、「感染を避けたい」という考えが強い人は、外国人に対する排斥的な感情も強い傾向が見られるという。 
 
 教訓として、差別は人間の基本的感情に由来するからコントロールは困難だが、差別行動は無知に由来する、ということ。
 新型コロナに関しては、「差別を少なくするには病気、感染様式などに関するより正確な知識が必要である」をあげたい。 



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?「差別の心理」(12) 新型コロナと差別(3)
 同調圧力と生き残り願望という二つの圧力が固着した日本社会で、新型コロナがもたらす差別の問題に対処するにはどうすればいいのだろうか? 

 道徳的な説得をしてもおそらく効果はあまりないだろう。病気にかかりたくない、感染したくないという感情は漫然とした恐怖感であり、意識しなくとも、湧き上がってくるものなので、それを抑えることは難しい。

 漫然とした恐怖感が生じるのは相手に対する無知、すなわち、新型コロナに対する知識不足が原因になっていることが多い。

 新型コロナの感染は誰でも罹りうる。自己責任とは言えない。もちろん不用意に3蜜の環境に近づく事を意識的に回避すべきであるが、蔓延してきた時点では誰でもそのような環境に紛れ込む可能性があり、100%防ぎえない。さらにそれを防ぐのは新型コロナに対する知識と感染者に対する情報である。

 新型コロナに関しては何か重大な局面が発生すると、その道の専門家がメディアに登場してコメントを述べる。しかし、そのコメントはメディア側の都合で断片的にしか取り上げられない。専門家が言いたい事の一部しか取り上げられていないことが多い。しかも、メディア側はよりセンセーショナルにまとめる傾向が強い。これでは知識よりも誤解、恐怖感を植え付ける。コメンテーターにとっても不満である。

 秋田県にも専門家が何人もおられる。秋田県では疾患多発地区の問題点をそのまま伝える必要はない。地元紙や地元のメディアに望みたいのは、秋田県の専門家を多く登場させ、秋田県の実情に即した情報提供をすべきである。

 メンタルの不調が他者への攻撃的な言動を増加させることはよく知られている。
 新型コロナによつてメンタルヘルスの問題はどの国でも深刻化している。かつて「一億総活躍社会」というスローガンがあったが、新型コロナに関しては「一億総不安社会」と言っていい状況である。
 そんななか注目されでいるのが、ネッ卜を使った遠隔診療である。心療内科における遠隔医療は、対面での診療と同等かそれ以上に効果的とする研究結果があり、我が国でも今後の普及が望まれる。 

 心療内科における遠隔医療の環境整備はコロナ起因の不安を軽減し、結果的に差別を減らすことに寄与するかもしれない。

 要するに、新型コロナ差別を少なくするには広くふさわしい情報提供が必要である。 

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?「差別の心理」(13) 新型コロナと差別(4) 攻撃より寛容
 秋田では新型コロナ感染者はまだ散発的発生で累計で60人ほど、岩手、鳥取に次いで少ない方に属する。
 一時はおさまつたように思えた新型コロナ感染は、決定的感染対策がないまま、経済活動再開の方を優先に舵を取ったから、感染への不安が再ぴ広がり、いろいろな場面において疑心暗鬼も発生してきているように思う。
 コロナ鬱も、関連自殺も増えている。そんな今だから家族や友人といった、不安を語れる存在の大切さが身に染みる。

 新型コロナ感染対策はやらないよりはやったほうがいいという相対的予防程度の予防策しかない。それでも、3蜜回避を基本にマスク着用、手洗い、アルコール消毒程度だから、社会生活の中で感染する可能性は常にある、と言っていい。

 だからといって、小さなコミュニティの中に閉じこもっていくばかりでは、どうにも明るい未来のビジョンを描けない。それ以上に、ウイルス以上におそろしい村意識、差別意識が育ってしまう。 

 いま、我々に必要なものは「ゆるす」いという寛容の気持ちじやないかと思う。
 ウイルスの存在自体にも「ゆるす」発想で見つめる必要がある。発生から間も無く1年経過しているが、決定的対策は何も見つかっていない。だから、ウイルスとの共存姿勢も必要であることがわかる。
 過去の疫病の歴史から学べる事は、人間社会がウイルス感染を乗り切るには、
■ 国民の大多数が感染し、免疫を持つ 
■ 有効なワクチン、治療薬の登場
■ ウイルスの弱毒化
■ ウイルスの自然消滅 ・・・・と、どれも決定的状態に至っていない。

 小泉首相の頃、自己責任という言葉が注目された。この自己責任論は年々肥大化し、あらゆるところで自業自得という言葉が散見されるようになった。いまの世相はまさにそうなってはいまいか。
 菅首相も自助・共助・公助を掲げている。これは正しいと思うが、自助を強調すれば差別につながりうる。

 疑心暗鬼になったり、自己責任論で他人を責めたりしてしまう前に、まず新型コロナウイルスを知ろう、人間社会を知るという姿勢が必要である。 

 コロナ感染者に対する差別的な言動が後を絶たない。人権を傷つける見過ごせない行いであるだけでなく、感染拡大を防ぎ社会経済活動を維持していくうえでも大きな障害になる。感染者の多い地域からふるさとに帰った人が、帰省した事情などお構いなしに批判される事例も見られた。

 集団感染を公表した高校、大学が理不尽な非難を浴びた。学校だけでなく、施設や企業などが感染者が出たことを明らかにするのは、人々に注意を促し、拡大を抑えるため。だが公表すると激しい攻撃に晒されるとなれば、事実を隠す方向に流れ、感染経路の追跡もできなくなる。

 感染する可能性は誰にでもあり、感染者を責めたところで何のメリットはない。他人を誹謗中傷する前に、まず自分を学べ。

?「差別の心理」(15) 免疫的には他人を100%排除する
 秋田では新型コロナ感染者はまだ散発的発生で累計で60人ほど、岩手、鳥取に次いで少ない方に属する。
 一時はおさまつたように思えた新型コロナ感染は、決定的感染対策がないまま、経済活動再開の方を優先に舵を取ったから、感染への不安が再ぴ広がり、いろいろな場面において疑心暗鬼も発生してきているように思う。
 コロナ鬱も、関連自殺も増えている。そんな今だから家族や友人といった、不安を語れる存在の大切さが身に染みる。

 新型コロナ感染対策はやらないよりはやったほうがいいという相対的予防程度の予防策しかない。それでも、3蜜回避を基本にマスク着用、手洗い、アルコール消毒程度だから、社会生活の中で感染する可能性は常にある、と言っていい。

 だからといって、小さなコミュニティの中に閉じこもっていくばかりでは、どうにも明るい未来のビジョンを描けない。それ以上に、ウイルス以上におそろしい村意識、差別意識が育ってしまう。 

 いま、我々に必要なものは「ゆるす」いという寛容の気持ちじやないかと思う。
 ウイルスの存在自体にも「ゆるす」発想で見つめる必要がある。発生から間も無く1年経過しているが、決定的対策は何も見つかっていない。だから、ウイルスとの共存姿勢も必要であることがわかる。
 過去の疫病の歴史から学べる事は、人間社会がウイルス感染を乗り切るには、
■ 国民の大多数が感染し、免疫を持つ 
■ 有効なワクチン、治療薬の登場
■ ウイルスの弱毒化
■ ウイルスの自然消滅 ・・・・と、どれも決定的状態に至っていない。

 小泉首相の頃、自己責任という言葉が注目された。この自己責任論は年々肥大化し、あらゆるところで自業自得という言葉が散見されるようになった。いまの世相はまさにそうなってはいまいか。
 菅首相も自助・共助・公助を掲げている。これは正しいと思うが、自助を強調すれば差別につながりうる。

 疑心暗鬼になったり、自己責任論で他人を責めたりしてしまう前に、まず新型コロナウイルスを知ろう、人間社会を知るという姿勢が必要である。 

 コロナ感染者に対する差別的な言動が後を絶たない。人権を傷つける見過ごせない行いであるだけでなく、感染拡大を防ぎ社会経済活動を維持していくうえでも大きな障害になる。感染者の多い地域からふるさとに帰った人が、帰省した事情などお構いなしに批判される事例も見られた。

 集団感染を公表した高校、大学が理不尽な非難を浴びた。学校だけでなく、施設や企業などが感染者が出たことを明らかにするのは、人々に注意を促し、拡大を抑えるため。だが公表すると激しい攻撃に晒されるとなれば、事実を隠す方向に流れ、感染経路の追跡もできなくなる。

 感染する可能性は誰にでもあり、感染者を責めたところで何のメリットはない。他人を誹謗中傷する前に、まず自分を学べ。


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?「差別の心理」(16) 家庭で、学校で育つ差別感
 私ども人間は、精神・心理面での「自己」によって、身体的には「免疫的不寛容」によって「自己」としてしっかりガードされている。

 「自己」としての確立は「他者と異なる」ことの認識に等しい。言い換えれば「自分はみんなとは違うのだ・・・」の認識である。「自分はみんなとは違うのだ・・・」の認識の発見とその維持は、一番簡単な方法としては何かをきっかけに「他人を下に見ること」である。誤解でもこじ付けであってもいいのだが、「みんなを下に見ること=自分の優位性の確立」が差別感の発生のルーツであり、その感情が個人に向かえばいじめになる。

 最近マスコミにおいて差別がよく話題になる。
 そこでの論旨は、多くは「差別はよくないことだから無くそう」、「いじめを無くそう」などなど、結果として導かれる悪しき表面上の現状にだけが関心を読んでいる。

 差別、いじめなどは人間の「自己の確立」にまで遡れるところに原因があるのだ、と深く掘り下げた記述はほとんど見られない。これらの抑制策が最も常識的対応として「人間は醜いものだ」、「残酷で冷たいもの」、「軽薄」・・・などとの論旨をみる。こんな考えのもとでは差別、いじめは無くならない。

 私の結論は「差別感情は誰にでも必ずあるし、なくならない」、「いじめは複数の人間がいれば大なり小なり発生する。なくすることはできない」・・・に至っている。

 差別感情は往々にして人を活性化する。差別感情は幸せ感をもたらす。
 こう考えると、人は実に残酷な存在である。

 その視点に立って「ならばどうするか?」の論点に向かねばなるまい。

 家庭での子育て過程で、学校の教育過程で差別をするような指導や教育がなされていないのだろうか??私は危惧する。
 家庭での家族間の対話など、多分、大人たちは差別感情ミエミエの話題で盛り上がっていることもあろう。子供達はそれを敏感に感じ取り、しっかりと身につける。親たちに、少なくとも子供の前ではそのような話題は控えるべき、との自覚はあるのだろうか。

 私は最近の教育現場のことはよくわからないが、学校では知識、才能を伸ばす教育が中心であれば問題である。学校では、人はそれぞれ違うのだと多様性を教え込まなければならない。それが差別感を和らげると思う。
 偉人の伝記など、並みの子供には受け入れ難い。偉人は例外中の例外の存在であることを教えるべきである。成績向上を第一に目指すなら差別感を作り出しているようなものである。
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