愛知・犬山旅行記


INDEX

(1)CRJ(カナディアン リージョナル ジェット)に初めて乗る
(2)寂れた名古屋小牧空港に驚く
(3)日本モンキーパーク(1)
(4)日本モンキーパーク(2)
(5)日本モンキーパーク(3)
(6)新潟大学46年卒同級会(1) 出席者19名とこじんまりした会
(7)新潟大学46年卒同級会(2)新潟中越地震
(8)新潟大学46年卒同級会(3) 疾病体験記
(9)有楽苑と国宝茶室「如庵」
(10)中部国際空港セントレア



(1)CRJ(カナディアン リージョナル ジェット)に初めて乗る

 10/9-10/10は久々の私的旅行。昨年、台風22号の急接近のために中止・延期になった新潟大学の同級会出席がメインである。出席は春に決めていたが、時間的余裕が無く10月に入ってから慌てて動き始めた。
 空路を極端に嫌がる家内が、何故か、今回は簡単に同意し、確保し難いと言われている秋田-名古屋便が運良く往復とも確保出来た。これで一月ほど前から坐骨神経痛で悩んでいる私もかなり気が楽になった。
 今年は我が家にとって特別の旅行になるだろう、と言うことで、関東在住の長女・長男も合流する計画となった。次男は私の不在中の患者の対応を引き受けるという形でサポート役で参加したが、いつも留守番だ、と不満げであった。

 18:50秋田空港からCRJ-200型と言う小型ジェット機に初めて乗り名古屋小牧空港に向かう。
 CRJはカナダBONBARDIER社が開発した短距離向け双発ジェット旅客機。胴体尾部にターボファンエンジンを2基設け、初飛行は1991年、1992年から量産されている。50席という小振りなキャパシティによってボーイング737などでも採算が合わない地方路線でも採算に乗せられる高い経済性を基本にし、最新の航空技術、操縦システム、安全配備など装備し、低騒音、高い安全性、居住性などが注目され、世界の航空会社で多くの実績を積み重ねている航空機である。
 日本では、100型と200型がIBEXエアラインズとJ-airで運航されている。

 私にとってこの機種は初めての搭乗経験となる。今まで経験した中ではYS-11に次ぐ、最も少ない客席数の旅客機。フランクフルトからワルシャワに移動した際の小型機は結局機種名を知ることは出来なかったが、それでもこれよりは大きかった。
 CRJに乗ってみてまず驚いたのは全席「革張りシート」であったこと。ただ、シート自体の厚みはややうすめ。客室はさすがに狭いが座席は通路を挟んで左右とも2座席。横幅は丁度新幹線こまち並。こまちは断面が長方形だが、これは筒型だからかなり狭い感じを与える。シートの前後間隔は中・大型機並に確保され、短時間なら十分耐えられる。滑走、離陸はさすがに軽快、揺れも振動も小型機らしく小刻みである。
 客室乗務員は一人と助手一人のみ、飲み物等のサービス等は一切無し。着陸・離陸時の乗客の世話だけと、考えようによっては単純明快だが、客室前方に客側を向いて座っている乗務員は終始表情を崩すことなく緊張した面持ち。これじゃ顔が疲れるだろうな、と思いながら、機能的移動の70分を比較的良い気分で過ごした。
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(2)寂れた名古屋小牧空港に驚く

 CRJ機は徐々に高度を下げながら名古屋市街上空を低空で通過し名古屋空港に向かう。名古屋空港ははかつては国際空港として中部地方の玄関口で多数の発着便があったから、これだと大阪伊丹と同様、住民への騒音公害もさぞやひどいものだったろう、だから大阪が関空に、名古屋が中部国際に移転したのも当然か、と思った。

 10:10着陸、見回すと確かに広い空港だ。滑走路の反対側は従来からの自衛隊小牧基地になっており、C130などが何機か駐機していた。折しもその近くでは航空ショウのようなエベントの日らしく滑走路のスミには中・小型機、自衛隊機が10数機置かれ、その周辺に千人ほどの人影が見えた。残念、予め知っていたなら私もちょっと行ってみたかった・・と思った。
 機は駐機場に向かうが、見渡しても殆ど飛行機が駐機していない。秋田から到着のを含め、僅かに3機のCRJ型機がいたのみ。ボーディングブリッジなど何にも無い。ビルの入り口付近まで機が近づき、乗客はそのまま入り口に歩いていく。乗降用のステップは機体に収納されてそれが使われるから空港側としては何も対応が不要である。

 ターミナルビルも寂しい。路線図を調べたら、何と、大部分が2月に開港した中部国際空港発着となり、小牧空港を使っているのは、JALだけ。秋田、帯広、山形、新潟、松山、高知、熊本間の便しかないようだ。しかもすべてCRJ機である。名古屋空港はほぼCRJ機専用の空港になっていた。だから何も乗降用の設備が必要ないのだ。
 空港ビルも土産物屋、食堂は殆ど閉鎖になって寂しい限りである。
 空港から名古屋、犬山に向かうアクセスも良くない。家族4人が移動するには便利なものがないので贅沢だがタクシーで犬山に向かう。運転手さんが「名古屋空港はかつてはあふれんばかりの乗降客がいたのですが、今や50人乗りの小型機のみになったので、からきし商売になりません」と寂しげであった。
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(3)日本モンキーパーク(1)

 私はかねてから機会があれば日本モンキーパークを一度は訪れたいと考えていた。そのルーツはここの創立者の一人である河合雅雄先生の著作を読んだときからで、もう30年にもなるだろうか。かつて、名古屋で臨床血液学会が催されたとき、医局の数人の同僚達と犬山の地を訪れ、国宝犬山城、明治村に行った。そのときは誰も興味を示さなかったために、また、時間も限られていたために、残念ながら諦めた。
 
 日本モンキーパークは、「世界サル類動物園:組織名(財)日本モンキーセンター」と「遊園地」からなる複合施設の全体を表す名称で、名鉄(名古屋鉄道)が経営するアミューズメントパーク。設立当初から日本の霊長類研究の最先端の施設として発足し、その後も京都大学霊長類研究所と深い関係を持ちながら今日に至っている、というアカデミックな施設でもある。

 パークの開業は昭和31年(1956年)で昭和44年に京都大学霊長類研究所が隣接地に設立された。「霊長類学」の創始者の一人といわれ霊長類研究所の助教授、教授を歴任した京都大学の河合雅雄先生が、この日本モンキーセンターの設立に尽力した関係から、この地に霊長類研究所が作られたとのこと。サルの研究といえば、京都大学霊長類研究所が世界をリードしていると言う評価である。

 遊園地と動物園はよくある組み合わせで、秋田市の大森山動物園もこれに類するが、ここは名が示す如くサル専門の動物園で世界的規模で見ても屈指のサル類専門動物園。 公式HPによると「世界で唯一のサルだけの動物園」で、サルに関する総合的な調査研究や、野生ニホンザルの適正な保護繁殖を目的に設立された、と言う。

 私は毎日毎日人間に囲まれ、対人間に疲れ果てているせいか、無性にサルに会いたくなっていた。人間に一番近い「サル」の表情や生活を通し、社会とは?、人間とは?をもう一度考えてみたいと思っていたからである。昨年も計画していたのであるが、同級会が台風で流れたために断念していただけに、腰痛・坐骨神経痛を乗り越えて、意欲満々の状態で到着した。同行の家内、長男長女も私同様にいたく興味を示したのは不思議である。
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(4)日本モンキーパーク(2)
家内と記念撮影・・・ ではなくゴリラの銅像と記念撮影
 私は今までこのモンキーパークは猿だけの施設かと思っていたが、全施設の2/3はサルと直接関連のない、大型の、何処にでもよくある遊園地そのものであった。
 名鉄犬山ホテルからタクシーにて会場に向かう。近づくと丘の上に大阪万博の「太陽の塔」か?と思われるモニュメントが聳えている。なんで「太陽の塔」がここにあるのだ?と思ったが、これは「若い太陽の塔」といって、同じ岡本太郎の作品で、大阪万博の「太陽の塔」の1年前の1969年に、このパークのシンボルとして設置されたものと言う。

 日本モンキーパークの公式HPによると、ここには日本国内、アジア、アフリカ、中南米等から集められた73種類、600頭ほどが飼育されているとのこと。最も巨大なのはローランドゴリラで体重は200Kgほどにもなると言うし、最小のは上着のポケットに入れて帰れそうな、どちらかと言えばネズミやリスに似たサルもいた。

 サルは、不思議と、見ていて飽きない。人間に似ていて同じような仕草や行動をするからであろう。もっともっと時間をかけて観たかったが、腰痛とのかねあいで短時間にせざるを得なかったのは実に残念であった。
 猿の行動自体も面白かったが、興味深かったのはサルの骨格の標本。各種のサルの骨格が陳列されているが種類によってずいぶん異なるものであった。夜行性のサルは目が大きく発達しているが、頭蓋骨で見ると眼窩が異様に巨大であり、片方の眼窩のサイズが脳のサイズより遙かに大きくいものもあって、驚いた。

 当日は連休と言うこともあって子供連れの若いカップルで混雑していた。モンキーを十分見たことも一つの成果であったが、これだけの若者達、大勢のはしゃぎ回る子供達の間に混じっての数時間は、何年も経験したことのない懐かしい時間でもあった。

 みんなサルを見に来ているのだろうが、サルの方からも結構人に近づき「今日はいろいろなサルが来ているワイ」といった感じで興味深そうにじっと目を合わせて見続けるサルもいる。こうなるとどっちが主役なのか分からない。

 パークを訪れた翌日は秋田に帰ってまたヒトを相手にする現実に戻ったが、何となく気が楽になった。片意地を張るなんて無駄なことだと今回猿から十分教わりましたよ。
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(5)日本モンキーパーク(3)
最も知能が高く最も危険な霊長類 「ヒト」
 日本モンキーパークの設立に尽力しされた京都大学霊長類研究所河合雅雄教授は、数年前に犬山から郷里の兵庫に戻られ、そこで「ヒトと自然の博物館」名誉館長、「丹波の森公園」公園長、「丹波の森大学」学長とかを務めながら、90歳ほどになられた今でもなおかくしゃくと仕事をされている、と言う。その話を聞きながら、その時も私は人間に備わっている「望郷の念」とはいかに強いものかと感心してしまった。

 河合氏がかつてNHKのラジオ番組に登場した時に、「サル学を学ぶことは人間を学ぶことである」と述べていたことが記憶に残っている。学問途中で戦争に招集され、厳しい前線で殺しあいを経験し、無事帰国した動物学者達の多くは、何故かサル学の研究の方に興味、視点を移した、と言う。 戦争の最中、彼らの脳裏には何故ヒトは戦争するのか? と言う疑問が激しく沸いてきたのだ、と言う。死の恐怖におびえながら何故自分はここで今銃を構えていなければならないのか、と考えたのは当然のことなのだと思う。
 動物たちの世界には、チンパンジーの一部を除けば殆ど同類集団同士の勢力争い、すなわち戦争に類似した行為は見られないことから「人間とは何か?」「何故殺しあいをするのか?」と言うことの追求の対象としてサルを選ぶのだ、と言っていた。

 私も興味を持ってサルたちを観察してきた。毎日毎日病める人間を相手に仕事をしてきていると、本当に「人間とは何なのか?」「人間は何故こんなに不安が強いのか?」「人間は何故健康や命にこんなにこだわるのか?」という疑問を持つ。何か得られるものはないかと思って園内を回っていた。不安や健康についての疑問は解けることはなかったが、 見ると園内の一角に檻があってその看板に「これがヒトです」と書いてある。周囲に何人かが居て多少気後れはしたが、そこで記念のスナップを一枚撮った。いい年をしていい気なモンであるが、この檻はたぶん河合教授の発想そのもの?、と感じたからである。私のバカさ加減を見ていた人たちの何人かが次々といろんなポーズで写真を撮っていた。なんだか解らないが、これが人間というものなのだ、と素直に認めよう。
 猿の生態は時間を得てもっともっと勉強したい分野である、と再確認してモノレールでパークを後にした。
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(6)新潟大学46年卒同級会(1) 出席者19名とこじんまりした会

 昨年、開催の前日まで順調に企画が進み、私共も準備万端の状態まで行きながら台風の急接近で中止になった新潟大学46年卒同級会が、去る10月9日の夜、名鉄犬山ホテルで開催された。私は新潟、長岡の会に次いで3回目の出席である。家内は私より数回多く出席している。

 日中にはゴルフ大会が催され、夕方からが同級会である。ゴルフは私共夫婦にとっては全く知識もない世界だが、聞くところ参加したメンバーの殆どがやるらしい。確かに、同級生同士でのラウンドは楽しいのだろう。
 ゴルフの参加者数は不明であるが、夜の交歓会は出席者19人と少なかった。しかし、丁度良い規模の会となり、誰かがスピーチしていてもみんなが集中して聞いて居れるし、気軽に質問したり、笑えたり、しみじみと共感も出来た。私にとっても卒後34年振りに会うメンバ?も数人居て、懐かしく、楽しい時間が過ごすことができた。

 私どもの同級生は4年ほど前に一名だけ胃ガン?で欠けたが、まだほぼ全員生きている珍しいクラスである。だから、香典用の積み立て金も遣い道がなくて○百万円もたまっているとのこと。次にこの積み立ての恩恵を授かるのは誰かな、もしかしたら私かな?、と思ってしまう。今回は中越地震の見舞い金としても役だったらしい。想定外ではあるが、良い使い道だと思う。

 出席者全員が一言ずつコメントを述べたが、内容的に大別すると4群に分けられた。まずは長岡在住のメンバーから中越地震のことが報告という形でじっくりと述べられ、これは住民として聴いても病院管理者の立場からも圧巻であった。次はやはり全員年だから健康面のことなど、聞いていてとても他人事と思えない内容である。さらに人生観の変遷など。もう一つは聞いていて全く分からないゴルフの腕自慢の話であった。
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(7)新潟大学46年卒同級会(2)新潟中越地震

 長岡在住のお二人から中越地震のことが見舞金への謝辞と状況報告という形でじっくりと述べられ、これは圧巻であった。

 新潟県中越地震は言うまでもなく平成16年(2004年)10月23日17時56分に、新潟県中部深さ約13kmを震源として生じた大地震で、ブリタニカ年鑑のデータで見ると、マグニチュード6.8、最大震度7、避難者約10万人、住宅損壊約9万棟、被害額約3兆円超えで、地域社会への深刻な打撃は「阪神・淡路大震災」にも匹敵するとされている。

 私は迂闊にもこの地震についてはあまり深くは関心を持たず実情の大部分を知らなかった。地域の被災状況、新幹線の脱線、幼児救出のニュース等は新聞等で少しは見てはいたが、多忙な業務の中深い関心を持っていたとは言えない。家内と相談し、比較的多額(?)の義捐金を病院の募金を通じて送ったが、どちらかというと対岸の火事的感覚でいた。

 お二人のうち一人は長岡日赤の副院長であり、一人は耳鼻咽喉科医院院長である。住民としての立場からと組織の管理者として、医療従事者としての立場から実態を述べてくれたが、それを聞きながらあまり関心を向けていなかった自身を深く恥じ入った。
 特にライフラインが立たれた状態での医療の維持の問題、自らの生活の不便さ、悲惨さは約一年を経過した今だからこそ静かに語ることが出来たのかもしれない。
 本震による被害はさることながら頻発する大型の余震は心底から恐怖であり、住宅の中で休息・睡眠を取ることも不安で出来ず、車の中で眠ってみたがそれも耐え難く、最終的には住宅の中に眠るための場所だけは何とか確保した、とのことである。
 救援物資、ボランティアなどによるマンパワーは比較的短時間に供給されたが、電気、ガス、水道の復旧までの不便さは大変なもので、特に排泄物の処理の問題、入浴出来ない不便さは何ともし難いものであったという。

 お二人の話の中でよく出てきた言葉は「TVでご覧になったでしょうが・・・」であったが、実は私は殆ど見ていない。これも拙いことで情報として仕入れておくべきだった。
 今回、私は一人の生活者としてだけでなく、病院管理者として無関心でいてはならない重大ごとだと認識を新にしつつ聴いていた。秋田で同様のことが生じたら、特に厳冬期間中であったら私どもは当面何をすべきなのか??
 
 長岡日赤だけでなく被災された周辺の医療機関でも今回の地震の総括などまとめるであろうから是非とも手に入れて勉強したいものだと思う。また、新潟県中越地震に関する資料集等も購入しようと思っている。
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(8)新潟大学46年卒同級会(3) 疾病体験記

 同級会のスピーチで新潟中越地震に次いで語られたのは、やはり還暦を迎えた連中の集まりだから健康面についての話題。これも医師の立場での闘病、体験だから内容的には客観性があり、迫力があった。脳梗塞、心筋梗塞、鬱、大腸癌、腰痛、坐骨神経痛、胃癌・・と話題になった病名を並べるのに事欠かない。やはり人間60歳以上は疾病との共存が当たり前と再確認した。

 その中で圧巻だったのは山登りを趣味とする外科医の心筋梗塞体験。私は彼とは卒後初めて、すなわち34年振りの再会である。勿論年齢の影響はそれなりにはあるが、体型もさほど変わらず表情も昔の面影そのものである。
 彼はある日、富士山に登り始めてしばらくして急に激しい前胸部痛に襲われ、治療開始までの3時間以上も殆ど軽減することのない激痛に苛まれたという。自ら心筋梗塞と判断したと言うもどうしようもない状況で、その場での死を覚悟したと言う。
 どういう方法で連絡されたのかは忘れたが、救急隊がその場まで登ってきてくれ、担架にて救急車が待機する場所までソロソロと下ろされ、静岡か山梨の病院に収容され、循環器科的治療にて狭窄・閉塞した血管が再開通し、一命を取り留めたというもの。その間の激しい胸痛はこの世のものでは無かったという。
 そのあたり、淡々と話す彼の表情は何か大きな人生の憑き物が落ちたが如く、高僧の如くの爽やかさを感じ取ることが出来た。そういえば彼の生家は寺であったように記憶する。それにしても登山道まで登ってきて搬送する救急隊も大変なものだ。そのプロ根性には感心し感謝しなければなるまい。
 彼は最近、あのオウムで有名になった上九一色村に第二の居を構えたと言う。「死に場所を見つけました、機会がありましたらお寄り下さい」と結んだ。

 別のメンバーの一人は「この同級会から帰った翌日入院、手術を受ける予定になっています。今回は感慨深い気持ちで参加しています」、とこれまた笑顔で淡々と語ったのが印象的であった。私の椎間板ヘルニア・坐骨神経痛は、自分にとって決して軽くはなく結構辛いが、その場での話題性はゼロであった。
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(9)有楽苑と国宝茶室「如庵」

 宿泊した名鉄犬山ホテルの真ん前に国宝茶室の一つである「如庵」がある事は現地に行ってから知った。これは一見の価値があると、モンキーパークのあと見学した。
 「如庵」は最初は京都の建仁寺にあった茶室で、これを建立した織田有楽は信長の弟、淀君の伯父にもあたる武将で波瀾に富んだ生涯であったとされる。「如庵」は、二代将軍の秀忠の下で徳川体制が定着し、社会や価値観が大きく変動していく最中、織田有楽は建仁寺に隠蔽し、元和4年(1618)頃「如庵」を建立したが、彼はこの茶室の中で何を思い、どんな晩年を過ごしたのであろうか。

 明治以降、何故か各地を転々としたと言うが、昭和47年に犬山城の近くに安住の 地を得て、有楽苑として親しまれることになったとのこと。犬山は有楽の生まれ故郷だということもこの地に落ち着いた理由の一つであろう。国宝級の文化遺産が各地を転々としたことなど、信じがたいことであったが、私鉄の名古屋鉄道が果たした役割は評価すべきであろう。

 苑内は広く実に静寂なたたずまいであった。見事な竹林があり、地には点々と踏み石がしかれ、その石のすみずみには苔が生え、その雰囲気は幽玄の言葉が相応しい見事な落ち着きである。敷石の傍らには「水琴窟」がさりげなく置かれ、滴が落ちるたびに小音量で優雅な音を立てていた。
 この苑内に国宝「如庵」、重要文化財「旧正伝院書院」、茶室「元庵」、および、昭和61年に茶会のために新築された「弘庵」がある。

 茶室「如庵」は小ささ、狭さを強調しているようだ。実にこじんまりしている。壁は渋い土の仕上で実に地味である。窓が小さくその代わりに採光用と思われる天窓がついている。
 「元庵」の縁側に座し、茶を一服いただいたが、静寂のなか、織田有楽の心境の何万分の一かは味わえたような気分になり、満足しきって苑を後にした。
 苑の外に一歩踏み出すとそこには騒然とした現実があり、私どもは「如庵」で得た雰囲気を大事にしようと急ぎホテルに戻った。そこには「如庵」とは異質の、人工的な静寂があった。
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(10) 中部国際空港セントレア

 翌日の予定が詰まっていたために、せっかく名古屋まで来ているというのに早めに秋田に戻らなければならない。予約している帰路のANA便は中部国際空港から14:00頃発である。宿泊した名鉄犬山ホテルからは一時間程度は移動に必要なようである。初めての空港なのでさらに余裕をとって11:00に犬山を発った。全席指定の特急列車が出ていて極めて快適に移動出来たが、指定券は最後の4枚であったという。アクセスに他の方法は無いわけではないが、時間がずっとかかるから、運が良かったと安堵した。

 中部国際空港は、愛知県の伊勢湾海上に造られた第一種空港で、2005年2月17日に開港。愛称のセントレア(Centrair)は中部空港の英訳を一つの単語に組み合わせた造語だという。開業初日の2月17日には96,000人もの利用客や見学客が押し寄せ、商業施設が大変混雑し、飛行機利用者の中から不満の声も挙がった事は当時ニュースで大々的に報じられた。混雑の理由としては空港以外の機能も充実していることが大々的に宣伝され、新しい物が好きな市民が大勢詰めかけたからだという。同じ事がかつて秋田空港が開港したときにも見られ、乗客を乗せたリムジンが立ち往生し大変であった事が思い出された。

 特急列車が空港に近づくと次々と目新しい設備が目に入ってくる。空港好きの私はどんなところだろうかと心騒ぐものがあった。1-3Fは空港施設なのだろう、新しいからきれいで雰囲気はいいし、ゆったりした空間に各設備が余裕を持って配列されている。
 セントレア4Fの商業施設スカイタウンはこれまた別世界で「ちょうちん横丁」と呼ばれるエリアは狭い通路に所狭しと商業施設が並ぶレトロ調の雰囲気。連休だからか大変混雑し、腰が痛い私は歩くのにも難渋した。パーラー、喫茶店、ラーメン屋、レストランは空席待ちの数10人ほどの行列が出来ている。私は人混みの中にいるのが辛く買い物に集中している母娘らとは別行動とし、早々に滑走路が見渡せるデッキに移動、発着する航空機を眺めて時間を堪能した。降りてくる航空機はいつ見ても美しい。
 デッキも人で一杯である。恐らく航空機を利用する客の何十倍かの客がこのセントレアに遊びにきているのであろう。とにかく人で溢れており、羽田や成田とは全く別の雰囲気がある。

 どうしても対比してしまうのは関西空港の雰囲気。関空も中部国際も似たような人工の海上施設ではあるが、関空は何時行っても・・とは言ってもまだ数回しか利用していないが、大きな施設の割に利用客は少なく閑散としていて単に通過する場所という感じだが、中部国際空港は商業街としての機能で満ちている活気のある場所であった。
 それにしても都会の方々のエネルギーはすごい、と感じてしまった。

 ボーイング737-300型機で70分、静かなたたずまいの秋田空港に着いたが、やはり私にとっては、こっちの雰囲気の方が向いている。
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犬山方面への私的旅行-まとめ

 この二日間、実際には一日半の駆け足旅行であったが、我が家にとっては実に思い出深い旅になった。10月中に徒然日記に分割して書き留めたものをまとめてみた。
                               (2005/10/30)
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