中通病院医報、32:7-12.1991

中通病院内科  福田光之

1 何で秋田から支援に?一秋田県連の対応には疑問
 1991.2.21から2週間、千葉県流山市の東葛病院の診療応援に派遣された。今、東葛病院の医局でこれを書いている。中通病院から4人の内科医が診療応援に来ることが明和会の職員にどれだけ知られているのだろうか。東葛病院支援に関しては秋田県連が主体的に動くべきである.事態の分析や支援の意義の説明もないまま医局運営委員会で人選したが、いつもの如く二転三転した。一定期間秋田を離れることは仕事上でも、私的にもそれなりの困難さを抱えているだけに、支援の意義や理念も示されない状況では誰もが受け入れ難いのは当然である。嫌な予感が的中し、私は2番手の支援医として指名された。大曲赴任も含めて考えるといつも同じ様なメンバーが選ばれる
 
 出発するまで県連から全く説明も何もなかった。本部から出張命令もなく、2週間業務を離れるのに管理会議での報告もなかった。唯一、東葛病院から路線図と旅費が届いたのみであった。
 われわれの立場は一体何なのか?こんなバカげたprocessは納得出来ない。
 応援の位置付け、理念が不明瞭のままでは個人的な診療応援でしかないこと、応援医への報酬も少なすぎると県連事務局に上申したが明快な回答はなかった。
 県連では割り当ての分を誰かが承諾すればそれで一件落着と考えているのではないか?山梨や岩手民民連の支援の際も、今回同様、個人的承諾のレベルで処理して来たのではないか?、と要らざる疑問が沸いて来た。更に、今春の県連の総会で東葛病院の支援を果たしたと総括されると思うと実際に動いた立場の人間としては背筋が寒くなる思いである。
   私は民医連を未だよく解っているとは思っていない。しかし、全国民医連の主張は同調出来るか否かは別として理解は可能であり、それなりの理念で貫かれていると思っている。一方、勧められるまま県連理事を2年やったが、そこでは報告事項を中心とする目的不明の会議が繰り返されていた。県連がイニシアチブをとって検討すべき秋田独自の懸案事項が多数あると思うが、県連独自の動きを殆んど感じ取ることは出来なかった.秋田県連は解り難い組織である。県連のありかたは再検討されるべきである.
 「立つ鳥、後をにごさず」は私の嫌いな言葉の一つである。後をにごさぬ様つじつまを合わせるから懸案が改善されないままになる。その意味でこの小文を書いた。
 いろいろな立場の方々から反論はあるとは思うが、私が抱いた偽らざる感想である。
 

2.こんな病院は倒産するのが当り前だ!

1立地条件、開設までの経過など
   流山市は千葉県の中でも最も西側に位置する。すぐ西は江戸川を境に埼玉県に、北は利根川を境に茨城県に接し、二つの河川の上流の分岐点を頂点として作られる細長い三角の地形の頂点寄りにある。三角形の底辺にあたる部分に「千葉都民」の地として急速に発展しつつある松戸市があり、ここには近代的な市立病院があり三次医療を担っている。東葛病院は流山市のはずれの江戸川の堤防脇にある。ちょうど住宅地と田畑の移行地域で、南には住宅密集地が、北には広大な農作地帯が見える。従って、当然のことながら交通の便も悪く、JRや私鉄の駅迄は遠く、バスもろくに走っていない。JR新松戸駅からはタクシーで1,600円ほどである。西側の江戸川対岸は埼玉県であるが、人口を想像することも出来ないほどの巨大な市街地が延々と東京都まで続いている。
 患者は川を泳いで東葛病院に来る筈はない。従って、東葛病院のサービスエリアは細長い三角形の底辺に相当する住宅地のうち、病院に隣接した領域のみに限定されるだろう。従って、病院の立地条件としては劣悪と言わざるを得ない。此の様な地域に400床規模の総合病院はいかにも異質である。地元に於ける実績がないまま突然開設しても成り立つはずがない。
 出張するにあたり再建資料を集めて下準備し、納得の上で出かけて来たが、着任した初日に抱いた感想は「こんな病院は1年程度で倒産するのは当然である」であった。それと共に、どうして今まで存在し得ているのだろうか? と、病院が現在まで辿ってきた経過、将来展望などに興味を感じた。この間の状況を理解するのに現場の職員の声や東京民医連の資料は貴重であった。
2病院の沿革を簡単に
・開設から倒産まで;
 東京のベッドタウンとして急速に人口が増えた流山市では都市機能、行政機能が追いついていけなかった。
そのため医療機関も不足し、地域の民主団体や労働組合が中心になって病院誘致の住民運動が生まれた。民医連にも誘いがあったという。実際に応じてきたのは東京で「みんなの医療、みんなの病院」をスローガンに掲げ、民医連と似て非なる医療活動を展開している「北病院グループ」であった。「北病院グループ」は規模はそれほど大きくはないがマスコミにもかなり名が知られている病院群であり、民医連の活動を痛烈に批判したこともあったという。行政のバックアップ、住民からの約10億円にも及ぶ出資、借入金を背景に、「北病院グループ」は異常なほど甘い事業計画のもとに金融機関からの巨額な借り入れ金を投入し、1982年7月、脳外科をメインにし、リニアックによる放射線治療施設までも備えた総合病院としてオープンした
 この病院が成り立つには1,OOO人規模の外来患者が必要と思われるが、全く実績もないのに地元診療所との病診連携のもとに開設から順調に経営出来ると読んだ試算は明らかに暴挙であり、事実的1年にて倒産(1983年9月)してしまった。
・倒産から現在まで
 倒産後、一時期入院患者数は200名から50名に、看護婦は115人から28人まで、医師は院長、副院長2人にまで落ち込んだという(1984年5月頃)。この様な状況でありながら、残った職員と出資した住民とが一体となり「血のにじむ様な」と病院資料に表現されている再建運動が展開された。
 その過程で東葛病院設立時の基本的誤りを、

・基本的医療の充実を怠り、アンバランスな高度医療のみを追及した 
・組織的医療集団の形成を欠き、特に医師団を大学医局に依存した 
・住民と医療従事者の相互協力による医療活動を展開しなかった


の3点に総括し、重点的にこれらの点を改善するよう努めたという。
 医師を始めとするマンパワーの確保は困難を極めたが、1983年以降、千葉、東京、北海道を嗜矢として民医連による全国的規模の応援が続けられ、徐々にではあるが経営実績も上向いてきた。困難の極致であった大口債権者との交渉も「奇跡的」に進展し(1989年6月)、最近微々ではあるが住民へ出資金を返済出来るような状況にまで到達したという。昨年9月には東京民医連への加盟が承認され、再建運動も新しい段階に入ったが、巨視的に見るとまだ決して経営の危機は去ったわけではない様である。
4 なぜ民医連に批判的であった組織の病院へ千葉、東京、北海道に続いて全国的規模で民医連の支援が始まり、これほど長期に続き得たのか?
5 なぜ全国民医連も支援を重視したのか?
6 秋田民医連にとって東葛病院支援の意義、理念は何か……。
4、5〕は東葛病院再建を語る場合重要なキーポイントである.おおむね理解出来たつもりであるが、小生が記述するのは適当でない。6〕も含め是非秋田県連幹部に記載して欲しいと思う。

3.東葛病院の現在の診療と活動状況
1現状の医師体制と今後の考え方
 現在の常勤医は内科医4名、外科医2名、それに院長(新松戸診療所で診療)、副院長(神経精神科)の8名である。常勤医である内科、外科医はすべて立川相互病院に籍をおき出向という形態をとる。昨年夏までは内科常勤医は7名であった。東葛病院の再建運動の新しい展開の為には病院に籍をおいた独自の医師団を形成する必要性があるが、その論議の過程で数年間志を一つにして再建に努力して来た仲間が名離れていった。難しいものである。
 現在常勤の内科、外科の6名の医師は今春から東葛病院籍の医師として再出発する予定という。支援はほほ全国の県連から行なわれて来たが、現在は3-6ケ月の中期支援医が徳島から1名、東京民医連から2名、2-4週の短期支援医は大阪、秋田からの2名で、全部で5名である。今迄の支援活動の中で秋田県連の2週間交替がもっとも短く、支援医の平均年令はとびぬけて高い。
 今の内科は9名体制であるが外来のほか週3回の往診、新松戸診療所の診療応援、そのほかの出向などもあり結構多忙である。外来診療は都内の大学からの出張と千葉民医連からの支援によって整形外科、小児科が連日、神経内科、耳鼻科、皮膚科、眼科、泌尿器科が隔日ないし週1-2同程度行なわれている。歯科の併設も計画されている。
2看護婦数
 看護婦数は本年1月の時点で85人まで増えた。看護婦、准看の比率は同程度という。看護士も5人ほどいる。看護婦の支援も既に延べ100名前後に達したという。現在鹿児島民医連から1名応援が来ている。看護体制は特一類であるが当面持二類獲得を目標においている。
3病棟、外来の診療状況
 現在稼動している病床数は内科、外科併せて200床で、実際の入院愚者数は170-185人程度、全診療科を合わせた一日の外来患者数は平均360人程度である。救急車は一日1-3件程度で重症者の搬送も多い。
 外来では院外処方箋を発行しており、最寄りの薬局の間には巡回バスが運行されている.、また、駅と病院間にもマイクロバスが3台定時運行され、患者の評判も良く、利用率も高い様である。
4 建物、施設、環境
 病院は広大な敷地(4,400坪)に一見雫石プリンスホテルを思わせる7階建のモダンな建物で威容を誇る。1床あたり11坪の広さだという。内部はさすがに奇麗であるがデザイン的にはワンパターン、無機的。病院として必ずしも機能的な構造とは言えないが、この敷地の所有者であった建築業者が中心になって設計、施工したためと考えられている。病院建築には殆ど実績がなかったらしい。
 現在、約1/3のスペースを閉鎖して運営しているため物理的には余裕が感じられる。しかし将来フル稼動すれば問題点が続出するであろう。
 7階の医局からの眺望は東側の一部を欠くがパノラマ的で素晴らしい。北側に広がる河川と緑豊かな風景は終日を通して美しく、西の彼方には富士山さえも望むことが出来る。夜は江戸川の対岸の夜景が実に素晴らしい。この点は中通病院とは雲泥の差である.着任してからの気候は秋田の4-5月に相当するほど暖かい。出発間際まで秋田の自宅で雪かきして来たのが信じ難い。
5 オリエンテーション
 到着した朝から新人医師向けのオリエンテーションがあった。医師の入れ替わりが激しいだけに系統的であり(小生は131人目の支援医に相当するという)、薬局長、事務系職員、医局係、外来病棟部長と続き午後3時過ぎまでかかった。私が中通病院に赴任した時まったくオリエンテーションがなく、しばらく暗中模索の状態にあったことを想い出してしまった。
 本拙文は1週間で書きあげたが、内容的にはこのオリエンテーションに負うところが大きい。
 医師が余りにも頻回に、かつ全国的に変わるため、手続きに行った病院事務員に保健所員が「民医連は何処にある医大ですか?」と尋ねたというエピソードがあると言う。実に暖かい話題である。
6 外来
 再建途上なのでそれほど患者が多くはないだろうと思ったが午前の内科外来は一般3診、専門外来2診の5診体制でも13時頃までかかる。午前、午後外来のほかに19時半までの夜間外来もある。看護婦が不足しているので診療介助は殆んど期待出来ない。処方箋は医師が書くが各医師の字が判読困難なので大変な作業である。往診も週3回あり、約100名の在宅患者を治療している。外来患者層は中通病院に比べれば若干若い。
 土地柄と思うが、言いたいことを言わずに帰る患者は少ない。説明に充分納得しなければなかなか去ろうとしない。患者に満足を与えつつ能率を上げるには秋田とは違った工夫が必要である。
 看護婦の対患者応対には若干問題があるような印象を受けたが、土地柄か、教育か、人出不足の反映によるのかは解らない。
7病棟
 ICU(8床)と透析を併せもつ病棟(47床)、準ICU機能を備えた急性疾患病棟(50床)、慢性疾患病棟(50床)、消化器系+外科病棟(53床)と4つの病棟が機能している.内科の患者は高齢者が多く質的には中通病院の内科病棟あたりに似るが、痴呆状態の患者の比率はやや高い。
 カルテは医師、看護婦用のが別冊になっている。1オーダーは一項目ごとに4連紙へ記載する。システムが中通病院と全く異なっているので慣れるまでは経過の全体像をつかめず結構大変である。
 看護婦は良く働く。しかし、絶対的人数不足のため病棟機能が充分発揮出来ていない。 慢性疾患病棟は50床であるが18人の看護婦体制で運用され、病欠者も出ている。夜勤は2人体制。看護、介護ですら目が届き切れていない状態であり、診療介助は殆ど期待出来ない。例えば、病棟当番医として動脈血ガス分析をまとめてやる場合などは大変である。自分で圧迫止血出来る様な物解りの良い患者はむしろ少なく、医師が止血をし、身繕いまでしてあげてから次へ移るので10人分もやる時には結構重荷である。
8 基盤組織
 1989年、友の会、守る会の2つが一体となり「東葛病院医療と健康を守る会」が発足した。現在の会員数は1,300名であるが引きつづき会員拡大の努力がなされている。検診や医療懇談会による地域との結びつきも徐々に強化されて来ている。
9 住民生活と流山ライフマンション
 特急「あけぼの」で上京、JRと地下鉄を乗り継ぎ流山へ向った。7時を少し過ぎたばかりというのに地下鉄千代田線の上り線の混雑は常軌を逸している。ドアが締まり切れず発車出来ないでいる車両もあった。若い住民の多くはこの様な超満員の、身動き出来ない電車で都内に通勤しているのだという。乗客の顔は総じて表情が乏しい。大混みを嫌悪する私の感覚では地獄そのものである.マイカーの場合は午前6時前に高速道路に人らなければ渋滞で何ともならない状態になるという。心身ともに健康でなければ住めない大変な社会である。
 与えられた宿舎は「流山ライフマンション」という立派な名称であるが兎小屋そのものである。古く狭いビジネスホテルを畳敷にしてミニキッチンをつけただけと思って貰えば良いだろう。しかし、此の辺では独り住まいの場合、この程度は標準なのだろうから贅沢は言えない。実際、
道路の騒音には激しく悩まされているが、短期間の生活には便利である。ただし、1ケ月以上ともなると話は別であり、こんな環境には耐えられない。
4.おわりにーー病院再建を支えている医療集団ーー

 倒産するのが当り前と考えられる東葛病院が、地域の要望に答える医療を継続的に発展させることを基本路線とした医療構想を作成し、実践してきた。そして、地域、患者、民主団体の支援、民医連各県連の支援に支えられながら着実に実績を上げつつある。外来、入院診療を通じ、地域住民や患者が抱いている信頼感や期待がとても大きいことが実感できる。この地域で東葛病院が果たしている役割ははかりしれない。
 
 今、第1次総合医療中期計画(3年計画)を作成し新たな発展をめざして再出発しようとしている。
この再建のプロセスこそ、東葛病院が本来、初めから踏むべき足跡であったといえる.とは言えども一度倒産の烙印を押された組織がここまで機能を回復するには並大抵のことではなかったはずである。そのエネルギーは何であったのか。僅か1週間の滞在で感じたことから安易な判断はすべきでないが、民医連の強固な医療観と、自ら果たすべき役割に対する個人的自覚と実践であった様に思える。常勤の諸先生方の枯り強い努力と民医連各県連の支援がなかったら、今日の東葛病院は存在しなかったであろう。支援開始当初は「ミンイレン??」といぶかった人も多かったと言うし、私もまだ斜めに構えているところがあるが、民医連はとてつもない大きなことを成し逐げつつあるように思える。 その意味で、秋田県連から支援したわれわれ4人の果たした役割はそれなりにあったと言えるだろう
 東葛病院の今後の発展を願って止まない。
 ”追記”これは着任1週間の時点での印象を綴ったものである。従って誤解もあるかもしれない。差し障りのある表現もあるとは思うが御容赦願いたい。
                          (東葛病院にて1991.1.26記)