中通病院に就職したわけ


1)生い立ちから医師になった理由

 田舎の開業医の孫として生まれたが、父、兄とも継がなかったので家族からも、地域からも医師になることを期待されて育った。祖父は小学生の私を馬の背、馬橇、オート三輪などに乗せてよく往診に連れて行ってくれた。暗く貧しい農家の座敷で,痩せこけた病人が家族に見守られながら死ぬ場面に立ち会ったこと、難産で予定通りに帰れず患家で一晩過ごしたことなど、思い出は数え切れない。将来は自分も祖父と同じように地域の人たちと過ごすのだろう、と医師になることに疑問も持たなかった。
 医師になるもう一つの目的は、極めて病弱だった自身の健康管理にもあった。

2)中通病院に就職したわけ

 祖父の死と共に廃業,村には岩手医大から医師が赴任した.両親も弱ってきたので盛岡近郊に小屋を購入,転居した。
 これで私は自由を得た.卒後2年宮古病院勤務後,血液の勉強のため秋大3内科に所属した.
 中通病院を選んだのは当院で研修した第3内科の若手医師の話などから,自分の医療観に近い医療もやっている病院、との感触を得たからで,院長室を訪れ雇って欲しい,とお願いした. 

3)民医連として輝きを感じたとき

 民医連のことは全く知らなかったし,医局会などでも理解できない話題も少なくなかった.民医連関連の資料を読み漁り何とか理解し得たし,いろいろ刺激を受けた. 最も感心したのは秋の県連学術集談会で,その時のテーマは”今なぜ民医連か--地域医療を考える”であったが,特別講演,シンポジスト,フロアからの熱気ある発言を聴き,何がこの集団のエネルギーもとになっているのか??と驚いた。しかし,これ以降、県連の活動に疑問を感じている.
 東葛病院、川久保病院へ診療応援した時,全国民医連慢性疾患診療担当者会議へ出席したときに、ある種の輝きと刺激を感じた。院内で仕事をしている範囲では民医連の輝きなど,殆ど感じない. 

4)趣味

 小学生の頃、蓄音機をいじっている内にいわゆるクラシック音楽に興味を持ち、竹針や金属針による片面3ー4分のSPレコードと格闘した。中学頃LPレコードに替わったが、30cm盤一枚が私の3食つき下宿代金の半月分で、それでも高校卒業まで10枚ほど買って、すり減るまで聴いた。大学ではオーケストラに属し、ヴァイオリンの基礎を若干教わっただけで演奏に参加しハーモニーを乱した.後半の3年はヴィオラを担当した。数年間は給与の大部分をオーディオ関連、レコードの購入、東京での演奏会などに通って散財した。手持ちのテープ、レコードをもう一回聴き返す時間はもう私には残っていない。将来、ゴミとして処分されるであろう。38歳でチェロを始めたが巧くはならない.最近ではマックに伴奏させて童謡、日本歌曲、タイスの瞑想曲・・など弾いている。
 テニス、スキーも楽しい。特にテニスは落ちるサーブを体得して脱皮をはかりたい。
 動物は好きで猫、熱帯魚がいるが、水管理など世話が大変で趣味と云うより私は奴隷に近い.
 読みたい本のリストも500冊以上になった。一日一日が短すぎる.時間が欲しい

5)職員や労組へのメッセージなど
 
最近,波風が小さくなっているが労使関係は依然として良い状況にはなく,残念に思っている.
 われわれの医療は職員一人一人が,集団で堅固に支えて来た.医療と働く環境を良くし,生活を守るためにも,状況をより正確に判断できる目を養い、云うべき事は遠慮せずはっきり言いたいものだ