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                         中通総合病院 内科 福田光之

1支援の意義は、支援医の立場は一…県連、本部の対応は問題
 私は今年度の岩手支援の1番手として1993年4月5日-18日の2週間の予定で岩手県連の診療応援に来ており、川久保病院医局でこれを書いている。応援医師公募に応募がなく、大曲出張に引き続き私が支援することとなった。
 県連間支援では秋田県連が主体的に動くべきであるが、支援に至る過程の説明や支援の意義の説明も、資料配布もなかった。本部の担当者には予め支援時の諸条件などの提示を要求し、一応提示されたが出張命令もない。中通病院(これでも一応秋田県連と書くべきか?)からここ2年余り、内科医が時折診療応援して来たことが県連ではどのように評価・総括されているのだろうか。応援の位置付け、理念が不明瞭では個人的な診療応援でしかなく、このprocessは納得し難い。しかし、この点については東葛病院支援報告としてすでに記述した(中通病院医報32;7一12.1991)ので今回は繰り返さない。
2岩手県連について簡単に
1病院・県連の歴史:
 1963年国に医療局労組など民主団体が中心になり岩手にも「働くものの医療機関」を造ろうと開設準備が始まったのを嚆矢とする。1966年1月、4人のスタッフで「盛岡民主診療所」が開設された。これが川久保病院の前身である。
 1968年3月「盛岡医療生協」が設立された。1973年病院(71床)を建設、1981年に120床となった。県連としての歴史と活動は約20年と言うがその詳細については知ることは出来なかった。
2県連加盟院所:
 川久保病院(120床)、仁王診療所(無床)、工藤医院19床〕の3院所である.かっては前二者が同一法人で2法人1県連であったが、昨年合併し1県連1法人組織になった.
・川久保病院:
 盛岡市津志田26-30-1にあり、診療科は内科、小児科、外科、眼科、歯科、小児歯科、理学診療科、鐵灸で、救急指定、特二類の認可を受けている。規模はちょうど大曲中通病院と同程度である。病院は盛岡駅からはタクシーで1500円ほどの距離で、国道4号線のすぐ脇にあり、医療環境としては秋田市で言えば仁井田付近に相当すると考えれば理解し易い。病院の立地条件としては盛岡市の南側にのびるベッドタウンに隣接しており決して悪くはない。これは小児科の患者数が多いことからもわかる。道路網も良く医療圏は南側に広い。しかし、病院前の道路の構造に問題があり、病院への車の出人りが不便で危険である.道路の管理者である国が道路の改造に同意しないため、というが、このことが逆に広大な隣接地(銀行管理)の利用価値を低め、そのおかげで病院が駐車場として借用できている。
 病院は一見立派に見えるが築後20年経過し、内部は汚れ、空間に余裕がない.医局はは後にプレハブで増築したものである。
・仁王診療所:
 盛岡市名須川町20-34にあり明和会で言えば港北診療所に相当する。診療科は内科、眼科、鐵灸である。一般診療のほか検診業務、振動病の管理に大きな実績があるというが、最近はマンパワーの不足から診療の縮小を余儀なくされている。
・工藤医院;
 岩手郡岩手町江刺内9-65-14にあり、盛岡市の北30数・の町にある。診療科は内科、小児科、耳鼻科、眼科、鐵灸で、かつては40数床もあったというが最近有床診療所となった。
3医師体制の変遷:
 以前の医師体制の詳細はわからなかったが、医療展望の確立には医師確保が常に最大の課題だったと言う。この状況に加え1990-91年にかけて3名の内科医が退職(うち一人は東葛病院に勤務)し、1992年には県連各院所の内科系の業務を中心的に担ってきた中堅医師が死去しマンパワーの不足は極地を迎えた。この厳しい状況の打開のために東北・北海道ブロック医師委員長会議は1993年3月末までの医師支援を決定、各県連より1-2ケ月間づつ支援が行われた。秋田からも1992年12月1ケ月間支援した。
 この間、県連内部の医師配置の変更などで調整したが、依然としてマンパワーは絶対的に不足している。現時点(1992年4月9日)での医師体制は川久保病院が内科2名(うち1人が仁王診療所長兼務〕、外科1名、小児科1名、眼科2名、歯科2名、で工藤医院が内科医1名である。岩手医大とのつながりは予想していた以上にあり、川久保病院の午後外来週4単位と当直の一部、工藤医院にも午後の内科系診療と当直、耳鼻科の診療応援がある。
 少なくとも県連としては6名の内科医が必要と考えられる。今春新卒医師を1名迎え、奨学生も7人になったことは全職員の大きな励みになっている。まだまだ先が長いといわざるをえないが状況は確実に前進しつつある。
5医師支援の歴史と今後:
 岩手の医師支援の歴史は1983年3月から月一回、1年間に渡って行われた青森県連による内視鏡支援に始まっている(11医師で12回)。初代の仁王診療所長の病気療養を機会に1984年5月東北6県医師委員長事務長会議は6ー8月の間、週3-4日間支援することとし青森、宮城、山形県連が支援した(42日間18医師)。
 1984年9月一1987年4月間は長期支援とし秋田、青森、宮城、山形県連が2ケ月ないし21ケ月間支援した(20医師〕。秋田県連はこの時初めて参加し4人の医師によって3ケ月間支援した(岩手県連第一回運動交流集会記録集1987)。その後も散発的支援はあったが、最近の支援としては、4年前に迎えた二人の新卒医師が院内外での一般研修が終了した後に各々半年間づつ北海道民医連で消化器系と循環器系の専門研修のために出張したが、その間の一年間は北海道民医連から支援が行われた。1992年10月以降、北海道・東北ブロックで支援を続けたことは前述の如くである。
 最近、宮城民医連は1993年6月から2年間の医師支援を決定し、それまでの間は東北・北海道ブロックの各県連が、各々2週間から2ケ月間支援を行うことになった.秋田からも1993年4月に2週間(今回の私がこれに相当)、5月中旬からも約3週間支援することになっている。
 私は50数番目の支援医に当たるらしい。
 なぜ北海道や宮城県速は自県連にも懸案を抱えながらもこれほど長期に岩手支援を行うのか? 秋田民医連にとつて岩手支援の意義、理念は何か、などは、民医連の県連間支援を理解するのに重要なポイントであるが、この点については言及しない。秋田県連の守備範囲だからである。
3岩手県各院所の病院活動状況
1現状スタッフと今後
 現在の医師体制は前述した。応援医を含め県連の内科医は4名であり、外来のほか、諸検査、週2回の往.診、仁王診療所、工藤医院の診療などがあり多忙である.
 長い間医師充足がメインテーマであったが、奨学生も7人となり展望は開けつつある.
 川久保病院の看護体制もやはり厳しいようである.病棟は特二類の定数は充たしているが、そのゆがみは外来看護体制に及び、外来看護婦の約半数がパートだという。各診療単位毎の診療介助は期待できない。看護婦の対患者応対には問題を感じなかった。教育が良く行き届いているのであろう.今後は医療構想実現のために力量のある事務系スタッフの要請が重要課題となるであろう。
2病棟、外来の診療状況
 本年3月の診療実績は川久保病院が一日平均の外来患者は327名であるが、各科の患者比率はややアンバランス(内科87、眼科131、小児科79、外科31〕である。入院患者は105名(内科57、眼科20、小児科10、外科18)、仁王診療所外来患者は56名、工藤医院は外来156名 ( 内科小児科86、眼科42、耳鼻科28)、入院20名であった.外来人院患者ともにマンパワーの充足により大幅な増加が期待できる。救急車は1ケ月3ー5件程度という.市内に高次救急救命センターがあるためである.
 各地域には巡回バスが運行され、患者の評判も利用率も高い様である。午前の内科外来は2診体制でも12時半頃までかかる。尤も、12時15分まで受け付けているので当然でもある。午後外来の殆どは岩手医大からの診療応援でなされている。往診も週2回あり、約20名の在宅患者を管理している。内科の入院患者は高齢者が多く質的には中通病院の7Aあたりに似るが、内科系全領域をカバーしているので慢性気道感染症や痴呆状態の患者は総体的に少ない(岩手県連支援報告(1)参照)。
4基盤組織
 医療生協組合は今年で創立25年を迎え組合員は20030名、出資金2億余円、事業高15億円を越えるまで成長した。昨年の総代会で病院隣接地の購人を決定し、老人保健施設などの建設も考え、現在増資計画が練られているところである。引きつづき会員拡大の努力がなされ、検診や医療懇談会による結びつきも強化されて来ている。
5今回の支援内容
 到著した朝から真っ直ぐ仁王診療所の外来診療で、その後もまとまった支援医用のオリエンテーションはなかった。各業務自体は量的には決してハードではないが、病院の医療システムや使用薬剤、カルテの形式に不慣れで、しばしば困惑しつつこなしている.
 支援される立場の歴史も長く、これからもまだまだ続くであろう状況から見れば、支援を受ける側としていささか配慮不足だろう、と感じられた。
 
6食事、宿舎など
 食事は患者食と同じものを提供していただいたが、結構美味しく食べられた。
 宿舎は川久保病院から歩いて7-8分の距離にある南ハイツという古いマンションの5Fである。6ー8畳の和室が3室、12畳ほどの広さのダイニングキッチン、バス、トイレからなり、一人柱まいにはもったいない広さであった。日常生活に必要な道具の殆どはそろっていた。これでも東葛病院支援時に住んだ6畳一間の流山マンションよりも家賃が安いという.建物が道路から30mほど奥まっており国道の車の騒音には悩まされず快適であった。
 しかし、秋田の自宅には家族のほか、金魚、ネコ、イヌ、観葉植物、花達が私の帰りを待っているので、ほぼ隔日に秋田の自宅に帰った.秋田発6:0Oの「たざわ2号」に乗ると業務には十分に間に合った。ただし、病院ー自宅間1往復が13000円で安くはない。
7支援医から望むこと
 支援を受け入れる側として準備や配慮がもう少しあればよいと思える点があり、以下の諸点、その他(細かいことは本稿では省略)について岩手県連会長と医局事務担当職員に申し入れた。
1 支援医に対するオリエンテーションが少ないのは問題である。支援を受ける県連としての立場から・支援に関連して背景の説明や資料の提供 ・県連間、法人間で交わされた支援の諸条件の提示 ・県連について歴史など。
 
 
2 日常業務に関する事項、カルテ、薬剤、検査、病院について、病院のシステムについて、医師の構成などのオリエンテーションも必要。
3 支援医の生活に関するオリエンテーションも不足である。
・病院周辺からの交通手段などについて 
・病院周辺の一般的商店、スーパー、書店、レストラン、銀行、キャッシュカードコーナーなどについて 
・盛岡での滞在をより有意義にするために各種記念舘、演奏会、博物館、美術館そのほかの盛岡の文化的遺産など、も紹介して欲しい。そのためにはタウン雑誌、地図などの資料も医局にあればよい。
4 支援医の日常生活のためには気軽に使える交通手段が必要である.病院から自転車を貸与して欲しい。
8おわりに
 僅か2週間しか支援しない私が安易なことは言うべきではないが、岩手県連の諸先生方、スタッフの地道な活動がいまやっと蕾になりつつある。しかし、開花までにはまだまだ時間が必要であろう。従って、北海道・東北ブロックの各県連、特に北海道と宮城県連の果たす役割は大きい。あえて秋田県連とは言わないが、中通総合病院からの支援医が果たす役割もそれなりにあろう。患者も信頼感も期待も大きいことは外来診療を通じて身近に感じられる。岩手県連の各院所がそれぞれの地域で果たしている役割は測り知れない.
 私が生まれ大学卒業まで20数年間過ごした郷里は川久保病院の医療圏の中にある.また、病院の脇の国道4号線は中学、高校と自転車で通った懐かしい道でもある。私にとって川久保病院は決っしてindifferentになりえない身近な医療機関である。
   川久保病院、岩手県連の今後の発展を願って止まない。
 (追記)これは着任後短期間に抱いた印象と見聞した事柄をもとに綴ったものである。従って誤解もあるかもしれない。差し障りのある表現もあるとは思うが容赦願いたい。

                                1993.4.14記