当たり前の三つのこと、「挨拶」、「笑顔」、「ディスカッション」
 私が院長として就任するにあたり、職員同士の志気と意思の疎通を大切にするために、「挨拶」「笑顔」「ディスカッション」、この当たり前の三つ言葉をキーワードにして職務を進める事を、院内の情報誌「日報めいわ」述べ、管理会議、運営会議、医局会で表明した。
 字数、時間に制限があるためにその背景については述べられなかった。日常、徒然と考えていたことを8月の「徒然日記」に何回かに分けて記したが、以下にまとめてみた。




「笑い」の効能   まじめに考えると笑えなくなるが

 私は随分笑う方だと思う。誰かと対話していても、大勢の中でも、あるいは全く一人でいるときでさえ笑う。時にはつき合い半分の、あまり面白くもない場面の時にも笑うが、これは人間関係維持の方便としての笑いで、この場合は「緩やかな笑い」という状況だろう。

 一方、4コマ漫画や川柳、ラジオの「お笑い」番組などの内、内容の豊かなものは心地よい笑いを誘ってくれる。これは突発的な笑いである。これはとても心地が良いものだ。
 後者の突発的な「笑い」はどんなときに生じるかと考えると、「自分が持っている論理的ルートからの、予期しない、突然の、しかも、著しい逸脱」によって生じるような気がする。少なくとも私の場合はそうだ。だから、クドクドと長々しいユーモア的内容よりパッと取り組めてパッと笑えるものが良い。だから、4コマ漫画や川柳、ラジオの「お笑い」番組が良い笑いを誘う。落語も漫才も良いが、その中ではパッパとテンポが速いものが良い。

 「笑いとユーモア」に関する研究は、多くは、哲学、心理学、社会学、文芸学、人類学、医学などの分野で専門的に行われてきた。それも大事なことであろう。しかし、そんな研究の結果がどうであろうと、「笑い」は、人間の心身の問題として、またコミュニケーションや人間関係の問題として重要な意味を持っている。笑いのない人生、笑いのない社会なんて考えられない。
 もし、ヒトが笑わない動物だったとしたら、この世の中はどうなっていたのだろうか。そんなことを考えるのは余りにもバカくさいと、一人で笑ってしまう。

 ヒトは誰でも笑う。当然である。だが、最近、日本人がみんな笑わなくなってきているのではないかと思う。一人でいるときにはどうなのかは知る由もないが、なんか日本全体が「笑い喪失症候群」「バカ笑い喪失症候群」というマズイ心理状況に陥っている様な気がしてならない。そのルーツは個々人の「自立化」ならぬ「孤立化」にあるように思う。 マア、難しい理屈を並べた考察などはさておき、家庭の中では笑って欲しいし、個々が属するコミュニティの中では、特に「私どもの病院の中では各職員にはもっともっと笑って欲しい」ものだ、と私は思う。そうなれば、何かが変わるのではないだろうか。

「笑顔」の効能(2) 笑って乗り切ることもある
 笑顔でいる時、私は自分自身がとても落ち着いており、前向き志向にあり、疲れにくい状態にある様に思う。だから、笑顔はこのストレス社会にはより大切なものに思える。

 実は、私は、時にはあまり面白くもない場面でもつき合い半分の、笑顔を作るが、これは人間関係維持の方便としての笑顔である。幼少の時からいわゆる良い子であることを求め続けられ、押さえつけられ、それに迎合しつつ成長した私の情けない姿でもあるが、それでもそう悪いものではなかろう。仏頂面しているよりは遙かに良いじゃないか。
 つくり笑顔でも真の笑顔でも脳波の変化が似ているとか、NK細胞が大差なく活性化することも、実験的に立証されていると言うから、作り笑いでも良いと私は割り切って気軽に利用している。

 例えば、外来診療で疲弊するまで頑張ってもさっぱり患者が減らないとき、業務が込みすぎてにっちもさっちも行かなくなったとき、人間関係に疲れてストレスが強いときなど「もう、笑うしかないね」と自分自身に言い聞かせ、周囲に愚痴りながら気持ちを入れ替えて乗り切るのは日常的に良くやっていること。

 たとえそれが作り笑顔であっても、笑顔でやると心身がリラックスして、何事もマイペースでより楽に出来るようになり、能力が維持される様に感じられる。心も体もなんか元気になる。また、直感、アイディアもひらめくし、相手の気持ちも敏感にキャッチできるし、相手に対して優しくなれる。だから、結果的に人間関係までスムーズにいく。

 笑顔は人間だけに授かった貴重な表情。もっともっと活用して、前向きに毎日を過ごしたい。人は一人では生きられない。ましてや組織の中では孤立化していてはやっていけない。笑顔で挨拶し、慰めたり,話を聞く、手助けする。これがコミュニティの基本だよ。

 ちょっと最近、みんなの表情が乏しいようだ。無用に心を閉じて居るんでないかい?



「笑顔」の効能(3)医療関係者の笑顔は、医療技術の一つだよ 
 笑顔を浮かべているとき、ヒトは明るく、リラックスしている状態だから心に余裕が生じ、外に心を開いている状態といえる。不安・不満を乗り越え、それなりに「プラス思考」の状況にあるということだろう。仏頂面では心は開かない。他人を受け入れるどころか自己すらも否定し、過剰に緊張し、人とうまく話せなくなっている状態だ。仏頂面では暖かい会話なんて成り立たない。すぐに対立関係になってしまう。

 ヒトに笑顔を向けられると、それだけでヒトは暖かさを感じるものだ。あたたかい家庭の家族の場合、意識しなくても笑みをたたえつつ会話しているのではないか。そこには無用な緊張感なんてないはずだ。
  ヒトは決してひとりでは生きられない。自分以外のヒトに支えてもらって生きている。しかし、意外とその自覚は最近の若い者には、イヤ、中年にすら欠けているのではないか?実際には「孤立」しているのにそれを「自立」と誤解して誤った自信を持っている。「孤立」しているヒトほど知らず知らず周りの人に迷惑をかけ、世話になっているものなのだ。それに気づいていないだけ。

 「アイコンタクト」は相手の目を見て話す、と言うコミュニケーション手段の一つ。これは対話の際とても重要な技術の一つであるが、このとき欠いてはならないのが笑顔である。笑顔が伴わなければ鋭い視線は一種の武器である。ここでは相手を不必要に緊張させるから、すぐに対立と言う関係に陥る。

 最近、会話の技術を持たない若い医療関係者、医師が増えているように思う。医療の現場で小さな、時には大きなトラブルを生じている。
  最近、立場が変わりつつあると言っても大病院の仕組み、そこに働く職員は病を持つ弱者である患者の視点、立場からから見れば相変わらず不安と脅威を感じる対象物であり対象者なのだ。だからこそ、医療関係者には笑顔が絶対的に必要なのだ。不安と脅威を感じている状況に笑顔を欠いた冷たい扱いを受けたとき、患者の心は瞬時に固く鎧でガードされる。もう診療なんて成り立たない。そこから大小のトラブルが生じ、それらがさらに育っていく。

 これを書きつつ、だれかの良い言葉「楽天的でいることは能力の一つである」を思い出した。
 医療関係者には、特に笑顔が大切なのだ。それは、医療技術の一つなのだ、と思う。



「挨拶」の重要さを再認識しよう(1) 
 ヒトは一人一人独立した存在であり互いに尊重されなければならない。そうは言っても、ヒトは一人では生きられない。家庭の中で、社会の中で、職場の中で、互いに何らかの関連を持って生きなければならない。さりとて、けじめのない、互いの領域まで踏み込んでくる様な人間関係は例え家族間であっても辛いし、上手く行かない。ましてや他人同士の中では尚更である。
 だから、そこに必要なのは個々のヒトが「自分」と「他人」を共に大切にする姿勢であり、そこにはけじめが必要である。なんて考えると難しくなるが、そんなことはない。「挨拶」がその関係を簡単に、かつ確実にもたらしてくれる、挨拶は人間関係にとって必須なものなのだ。

 家族間でも「おはよう」「行って来ます」「ただいま」「お休みなさい」「・・・」と挨拶し合うことはとても大切である。挨拶をしっかりすることはけじめをしっかりすること。このけじめを付けることでヒトはたとえ家族同志であっても、互いに独立した人格である、と言うことを学ぶことが出来る。だからこそ家庭内での挨拶の教育、習慣は社会の中でヒトが生きていくための最も基本的な教育でもある。が、最近、この教育がなされていないのではないかと思ってしまう事象に事欠かない。

 家庭の中での重要なこの挨拶の習慣は職場では更に重要であり、必須である。
 毎朝、会ったときには「おはよう」、仕事の終わり時、帰宅時には「さようなら」これで良い。更に移動中にすれ違ったときなど「ごくろうさん」・・と声を掛け合う様であれば更に良い。頭をちょっと下げる、それでも良いがやはり声を出さないと寂しいね。職員同士の挨拶の意義は志を同じにする仲間通しの連帯感の現れ醸成であり、なおかつ、互いの立場の尊重の意味があって、とても重要である。



「挨拶」の重要さ(2) 「五つの心をもって挨拶」
 挨拶し合うということはお互いが気分が良いものなのだ。少なくとも挨拶されて、挨拶し合って不快な気分になることなんてあるのだろうか? 私は、絶対ないと思う。ただ、良い挨拶が返ってこなかった場合、無視された場合などはちょっと不快になる。だいたい挨拶されて、それを無視するなんてどういう心境なのか、私には理解を超えた世界だ。

 この点に関して古い経験だが、秋田大学第一内科血液グループに属して半年ほど過ぎた頃、チーフのS助教授から「病理のある助教授が、今度来た福田という若い医師はろくに挨拶も出来んのか?」と言われた、と告げてくれた。私は当初はキチンと挨拶をしていたが無視され続けていたのでそのうち挨拶されるのも迷惑に思っているのかもしれないと考えて挨拶をやめていた。その後、S助教授の立場もあろうと考え仕方がなくまた挨拶をし始めたが病理の助教授はなぜかそれ以降はきちんと挨拶を返すようになった。もしかすれ無視していたのではなく、彼自身のスタイルで返答していたのだろう。今はそう解釈している。挨拶を交わすようになってからは仕事上での対話もうまくいくようになった。

 挨拶は他人同士のを見ていても気分が良いものだ。タクシーの運転手さんたち、同じ会社のタクシーとすれ違うときにさっと手をあげて挨拶し合っているが、そうでない会社もある。挨拶し合うか会社ではおそらく人間関係も上手く行っているのだろうと自然とそう思ってしまう。


 医療機関においては、職員同士の明るい挨拶は患者たちの目で見ても気持がなごまるだろうし、医療機関に対する信頼感にもつながって行く。職員同士がろくに挨拶もしないような、コミュニケーションも上手く行っていなそうな、そんな医療機関に患者たちは暖かさ、安心感を感じるだろうか。

 昨年訪れた国立病院機構盛岡病院の掲示には以下のごとくあった。今改めて見直してみたがとても良い言葉である。
 「五つの心をもって挨拶し、人に優しい・限りなく優しい病院」
    「はい」という「素直な心」
    「ありがとう」という「感謝の心」
    「すみません」という「反省の心」
    「どういたしまして」という「謙虚な心」
    「させていただきます」という「奉仕の心」





挨拶の重要さ(3) 明るい挨拶で病院を変えよう
 欧米では挨拶は身を守るために重要な習慣となっている。挨拶を交わすべき状況で交わさない仲は一応敵と見なすらしい。個々の人格を重視して生きるためには相手と自分の関係をはっきりさせておかないと危ないことにもなりうるからである。
 その点は日本はルーズである。甘えなのか、ファジーなのか、はたまた個よりも集団の論理なのか、家庭内での教育の拙さなのか。挨拶が上手に出来ない世代が子育てしているのだから止むを得ないか。
 実際に、私と挨拶を交わさない同僚医師も少なくはない。そう言うヒトには私の方でも僅かな挨拶のサインしか送らない。が、欠くことはない。最小限、黙礼程度は同僚として当然の礼儀だから。さりとて私を敵視しているわけではないようだ。それなりに普通に会話が成り立つ。だから不思議でもある。基本的に他の職種の方々とも同じ。多くは向こうから挨拶される。ほぼ同時に私も返答する。やはり、挨拶を欠くヒトはそれなりにいるが、敵視とか云々の前に素養の問題らしい。
 
 病院では職員同士が明るく挨拶を交わす。そんな環境が欲しい。そのことが職員同士のコミュニケーションをより豊かにし、医療のレベル、質を向上させることになる。質の中には勿論安全の向上も含む。職員同士が明るく声をかけやすい環境は医療安全の基本である。いや、それ以上に、一日の1/3も過ごす場所だもの、それに、自分と社会との接点の場でもある。少しでも明るく気分良く仕事が出来る様になれば、それだけでも良いことだ。

 腐ったみかんが一つでもあると、みかん箱の中はやがて全部属ってしまう。挨拶というこんな簡単でいい習慣でさえ放っておくと駄目になって行きうる。特に、この厳しい医療情勢の中だもの、病院という組織の中で、多忙な業務の中で、少し心がくすんでいて上手く行かないと前向きに考えずに言いわけをするようになっているのかもしれない。

 だから、ふと思う。挨拶一つで職場の雰囲気は変わっていくのではないかと。




「対話--ディスカッション」の重要さ(1)阿吽の美徳は捨てよう
 「笑い」、「挨拶」、「笑顔」の次ぎに私が大切にしたいのは「対話--ディスカッション」である。現代の日本では、と言うのはオーバーか?、私の職場では、日常的会話はそれなりに豊かに見えるが、対話がすたれかかっている様に思われてならない。更に、会話レベルから一歩踏み込んだ対話の際に、「個人の生きた言葉」が乏しくなってしまった様に感じられる。この国では個々の個人の言葉の価値よりは、TV画面、パソコンの画面の方が重要視されるようになってしまったのではないだろうか?

 対話は単にしゃべり合う日常的な、相手を傷つけない気楽な会話とは違う。白黒をはっきりさせなければならないときに交わされる討論により近いが、同義でもない。対話では自分の人生の蓄積を背景にし、その論理がより説得的であることが求められる。みずからの生きている環境、現実からかけ離れた、教科書的な言葉、夢想的な言葉の使用はまった対話にそぐわない。対話とは各個人が自分固有の実感・体験・信条・価値観などにもとづいて何ごとかを語ることである。

 一方、会話は、コミュニケーションのような「達成さるべき一定の目的、情報伝達等の目的」をもたない、異質な個人が異質性を保持しながら出来るものであり、分からず屋を排除もしない気楽なものである。「サザエさん」、「ちびまる子ちゃん」、「寅さん」などが何10年も続くルーツはそこにあり、対話や討論がなく、全てが日常的会話のレベルで落ち着いているからであろう。そこで交わされる言葉言葉をとらえて理屈を振り回すのは簡単だが、バカくさいし、変わり者として周囲のヒトに嫌われること必定である。

 日本人は対話を好まず、むしろ阿吽の呼吸を重視する、と言われている。ヒトから何かを言われて「わかったような気」になりやすいし、その様に教育されてきたのが日本人なのだ。「一を聴いて十を知る」ことが美徳とされものを学ぶときに一般的に要求される態度でもある。しかし、この態度は有害以外の何物でもない。
 特に医療機関では危ない。医療事故の温床となる。そこに必要なのは対話である。




「対話--ディスカッション」の重要さ(2)
 我が国では「一を聴いて十を知る」こと、阿吽の呼吸などファジーな判断の中で正しい結果を出すことが美徳とされて来たが、この態度は有害以外の何物でもない。折角の対話の芽をつみ取るからである。
 「それはおかしい」、「私にはわかりません」と言い出すことは若干の勇気がいるが、素晴らしいことである。この様な簡単で単純な問いを発することが対話の基本である。対話は物事の白黒をはっきりさせる、必ずしもそんなものではない。そんな大げさな考え方だと対話は消えてしまう。対話をすることによってこそ、各個人が抱く意見を、小さな差を確認しながらゆっくり前向きに進む。対話があるからこそそこに発展があるのだ。
 ただ、対話が生まれる環境については重要である。そこには「挨拶」、「笑顔」を交わす仲であれば気楽に対話が生まれてくる。そういう仲でないととても大きな勇気がいる。

 最近、正論を吐く正論論者が増えてきているが、この正論を振りかざしてくる相手との対話が虚しいのは、各個人がもつ微妙な個人的な考えの機微が削りとられた意見になるからである。個人が個人の実感にもとづいて発するかけがえのない言葉こそが重要なのだ。賛成か反対かという結論のみに力点をおいて、本音、自分の感覚を語らない、そんな対話は先すぼみとなる。

 我が国では、真実を語ることよりも「思いやり」を優先する考え方が少なくない。特に医療の世界はその傾向が強い。特に医師同士の仲では互いの仕事、判断などを批判しないのが礼儀とされてきたが、これについてはその危険性を告発しなければなるまい。
 最近、子供たちは特に「思いやり」が必要という教育がなされてきているから、かえって本当の気持ちを語れなくなっているのだ。相手への「思いやり」を重視すればするほど対話が成立しなくなり「なぜ?」「わかりません」という単純な言葉を発することが出来なくなる。これでは、ことの真相は追求されなくなり、いつも他人への「思いやり」と言う配慮によって背後に隠される。この風通しの悪い社会、すなわち「遠慮」、「思いやり」を背景に真実を語らない社会、言葉を信じない社会が形成されてきたのである。
 
 医療機関の中ではこれではいけない。日常のちょっとした対話の重要性はどんなに大きく評価しても評価しきれない。だからこそ、その対話が出来る土壌として、まず「挨拶」を交わすことが第一、気持ちの良い挨拶の後は「笑顔」である。そして、そこに生まれる「対話」を大事にしたいものである。



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